WORLD TOURING 1986/3.3〜1988/9.22の全日程-04
北アメリカ・中央アメリカ、→ 南アメリカ、→ ヨーロッパ、↓北アフリカ・ヨーロッパ・中近東・アジアINDEX
※ 旅行中にノートに書き込んだ記録をデータにしました。(随時加筆中)

EGYPT → ISRAEL → EGYPT→ GREECE → ITALIA → TUNISIA → ALGERIA → TUNISIA → ITALIAJUGOSLAVIJA
TURKEY → SYRIA → TURKEY → IRAN → PAKISTAN → INDIANEPAL → Tibet → NEPA
■北アフリカ・EGYPT
Cairo /カイロ 79,935kmCairo

アフリカの旅

朝8時に起きる。いよいよアレキサンドリア着。フェリー内のカフェに行くとビザなどの受付が始まっていた。ビザの審査、入国スタンプ、その時U$2と15.25E£の印紙を購入。エジプトポンドが無いので両替、散々並んでビザをとる。さらにカルネで通関するため12E£を払う。11時過ぎにやっと外に出る。それからカルネを返してもらう間、エジプトのライセンスを取り、保険(32E£)に入らされる。エジプトのナンバー(5E£)をとり、用紙二枚に記入してもらい、出口でその用紙を渡し終了。

アレキサンドリアからカイロまで250km、頑張って走る。砂漠の道は南米のパンアメリカンハイウエイに似た感じだ。17時頃カイロ着、エジプト人に案内してもらいYHに着くがいっぱい。ホテルを探し回り、ホテルスイスに入る。バイクはホテル近くの駐車場を借りる。料金は交渉、以後、何でも交渉。うんざりするほど交渉。
ホテルは4人で一部屋で1人5E£、駐車場は一日1E£。

入国審査は、ヨーロッパからやってくるバイクや車の観光客からお金とる方法を考えだした感じだが、効率良く用紙一枚に全てをまとめればよさそうだと思が、たぶん問題は効率ではないのだろう。
ホテルスイス 5E£
駐車場3E£
U$1=2.19ポンド

入国時
ビザ=U$2+15.25E£
カルネ=12E£
ライセンス・保険=32E£
11/12 Cairo カイロ観光。エジプト博物館(3E£)、オールドカイロ。 5E£、駐車場1E£
11/13 Cairo
Giza

ギザのピラミッド観光。
ギザ/Giza(1.5E£)までバイクで20分ぐらい。ピラミッドの周りは、しつこいお土産屋などがうようよ。

ホテル5E£、駐車場1E£
11/14 Asyut /アシュート 朝8時にカイロを出発。アシュートまで約400km。100kmに一度の休憩を取り必死に走る。ナイル川沿いの道は変化に富んで美しい。車の運転が乱暴で、対向車がおかいまく追い抜いて対向車線にはみ出してくる。速度を上げるのは危険だ。15時過ぎにアシュートに着く。ホテルはZamZamという名前で、欧米人が使っているガイドブック・シューティングに乗っていたとこらしい。部屋は4人部屋。エジプト人にしつこく誘われお茶を飲みに行く。ホテルには別の日本人旅行者がいた。 ZamZam、2E£
11/15(日) Luxor
ルクソール
Luxor
朝8時に起きて、9時に出発。今日はルクソールまで行く。途中で派手に転ける。またサイドバックがクチャグチャ、さらにスタンドのスプリングが飛んでしまった。探したが見つからない。同じコースを後ろから走ってきた女の子も転けた。彼女のバイクはブレーキレバーが曲がってしまった。そばにいたエジプト人のバイク野郎が、レバーを買いに行ってくれた。それを削って取り付ける。自分のサイドバックはホテルで修理が必要だ。途中で食事をして16時過ぎにルクソールについた。駅前にホテルが多数あるがどこも一杯、さすが観光地。客引きに連れられて人家の奥のホテルに入る。静かなところだ。食事をしてバッグの修理をする。部屋は2人部屋。 ホテル2.5E£
11/16 Luxor 朝9時過ぎに起きて食事。今日は洗濯をする。他は何もしない ホテル2.5E£
11/17 Luxor 朝10時過ぎに起きて女性たちが作ってくれた食事を食べる。洗濯。13時過ぎからカルナック、ルクソールにいく入場料は5E£、ホンダに乗っているOさんはかなり疲れているようで寝てばかりいる。彼はすでにアフリカを縦断し、ブランスで交通事故で手首を骨折。腕に金具が入ったままの状態で最後のエジプト旅行にきた。 ホテル2.5E£
11/18 Luxor 朝10時過ぎに起きて女性たちが作ってくれた食事を食べる。11時からフェリーでナイルを渡り、王家の谷を見に行く。フェリーとは名ばかりで、普通の小型の客船で現地の人でいっぱい。みんなでバイクを持ち上げて船に入れた。帰りも同じ。
入場料5+2E£、フェリー0.75E£
ホテル2.5E£
フェリー0.75E£
11/19 Aswan /アスワン
アスワンからアブ・シンベル

朝9時過ぎに起きて食事を食べ出発。朝から腹の具合が悪い。エドフ、コモンボの遺跡をみてアスワンに向かう。15時過ぎにアスワンのコンチネンタルホテルに到着。すぐ寝てしまう。

ホテル1.5E£
11/20 Abusimbel
アブシンベル
アブシンベル

朝8時過ぎに起きて食事を食べて出発。まだ腹の具合がよくない。今日はアブシンベルまで行く予定。途中パミッションをとるとかで街をぐるぐる回った。結局分からなかったのでアブシンベルまで行くことにした。結局パミッションは不要だった。ひたすら砂漠の道を約270km走る。15時前に着いた。とりあえず食事をして、ホテルを探すが、たった1つのホテルでU$37.60(ツイン)と言われ、やめてキャンプをとなったが自分以外はキャンプをする用意はない。交渉してアブシンベルの学校に泊めてもらうことになった。とても親切でマットまで用意してくれた。

学校に泊めてもらう
11/21 Aswan /アスワン
朝6時に起きて片付けて、出発の用意。学校の校長先生がやってきて、生徒を見てくれと言われ、朝礼を見学。8時過ぎに食事をして、アブシンベルの遺跡を見に行く。10時過ぎにアブシンベルを出てアスワンまで戻る。帰りはフリー走行となる。250kmあたりでOさんに追いつかれれ、その後ガス欠になった、風が強く、リッター17/kmぐらしか走らない。アスワンでガスを入れ、食事。15時過ぎにホテルに入る。その後バイクの整備、ホテルのおじさんにバイク屋を教えてもらい、タクシーの運ちゃんとバイク屋に行き、無くしたスタンドのスプリングを買いに行く、Fさんのバイクのライトの球も買って戻理、取り付けたが点かなかった。どうやらスイッチが壊れていたようだ。 ホテル4.55E
スプリングの購入
11/22(日) Hurghada
フルガダ

朝7時に起きて、食事をして出発。今日は500km近く走る予定。2組に別れ、それぞれペアで走ることにした。アスワンからルクソール、キナ、フルガダ。キナ(R60)から砂漠を走り抜けると紅海が見えてくる。フルガダに着いたのは18時過ぎ、Oさんたちはすでに着いていた。またスタンドのスプリングが失くなった。また、買う(3E£)。

ホテル6.0E£
スプリングの購入3E£
11/23 Hurghada 朝10時に起きて、食事をしてバイクのスタンドのスプリングを取り付ける。荷物の整理をする。ザックの荷物をサイドバッグに移し替えようとしたのだが、荷物が減らない。15時過ぎに外に出て針金を探してみるが見つからない。OさんとFさんが戻ってくる。もう1人のFさんはお腹の具合悪く寝ている。 ホテル6.0E£
11/24 Suez /スエズ

朝8時に起きて、食事をして出発。紅海側の道をスエズに向かう。今日もフリー走行。140km地点でガスを入れ他の人を待っていたら、Fさん1人がやってきた。ともかく2人で出発。さらに50kmぐらい先で写真を撮っていたら、もう1人のFさんがやってきた。Oさんのバイクが焼きつき、車を拾ってスエズにバイクを運んでるそうだ。
そういえば昨日、Oさんがエジプトのガソリンスタンドでオイルを買い交換、すごく安いから、買ったらどうかとすすめてきた。訳の分からないオイルを入れて焼きついたのだろう。スエズのホテルに入ったがあまり良くないので、YHに向かう。すれ違いざまOさんがやってきた。食事をして、YHでOさんのバイクを分解することにした。シリンダーカバーを外し、シリンダーヘッドを開けたら、ピストンがリングの上、1/3ぐらいかけて、バルブにアルミが付着していた。エンジン終了。ともかく今日は寝ることにした。

YH 1.25E£
11/25 Suez

朝10時に起こされる。Oさんは出かけていた。話を聞いたら、電話がうまく繋がらないので、カイロにバスで出かけたとのことだった。食事をして両替。工具を買いシリンダーを外そうとしたが、工具が壊れてしまった。することもなくバイクの整備。Oさんは18時過ぎに戻ってきた。バイクを箱ぶための運送屋などを決めてきたそうだ。さすがだ。アフリカを縦断した実力発揮といった感じだ。

YH 1.25E£
11/26 Suez
Suez
朝9時に起きて食事をしてバイクを組み立てる。その間Oさんは木箱を作るためのサイズを計り、材木屋に買いに行った。昼、材木屋で食事をして、木をYHに持ち込み木枠を作り始めるが、自分が持っていた小さな金槌一個しかなく、作業がはかどらない。夕方YHのマネージャが戻ってきたので、金槌とノコギリを借りた。ほとんどの作業が終わったのが22時を過ぎていた。食事は昼も夜もサンドイッチ。材木は50E£、釘が約3E£。考えられほど安い。 YH 1.25E£
11/27 Suez 朝9時に起きて食事をして午後から自分のバイクの整備。YHは街の中心から離れているで出かける気になれない。 YH 1.25E£
11/28 Cairo /カイロ
カイロ
朝7時に起こされる。運送屋がバイクを取りに来る。バイクをトラックに乗せ、Oさんはトラックと共に出発。一眠りしてむ、10時過ぎにYHを出発しカイロに向かう。カイロまで130km、カイロに着いて食事をして最初に泊まったペンションスイスに向かう。13時頃、駐車場の交渉を終えたころOさんがやってきた。ホテルに入った。 ホテル5E£、駐車場1E£
11/29(日) Cairo 朝9時に起きて食事をして、また寝てしまう。3人は観光に出かけた。 ホテル5E£、駐車場1E£
11/30 Cairo 朝9時に起きて食事。今日は一日することがない。また寝てしまう。 ホテル5E£、駐車場1E£
12/1 Cairo
朝8時に起きて食事。9時過ぎに日本大使館に行く。 ホテル5E£、駐車場1E£
12/2 Cairo 今日も日本大使館に行く。 ホテル5E£、駐車場1E£
12/3 EL Arish /アリーシ 朝9時に起きて食事をして、出発。OさんとFさんがダンデイム。カイロ市内は複雑で混んでいる。市内を出る前に3人とはぐれてしまう。イスマイリヤまでの道が分からずウロウロしてしまう。イスマイリヤからフェリーに乗る。フエリー代はただだった。イスマイリヤからアリーシを目指すがかなり距離がある。3人はラファではなくエイライトに向かう途中の国境を通過すると思って、そこへ向かったが、国境はしまっていて、アリーシに戻れと言われる。往復190kmも走ってしまう。20時過ぎにアリーシに戻りホテルに入る。今日は400km近く走りヘトヘトだ。
イスラエルに向けて出国時は出国税10.5E£、手数料50P、税金4E£。何かと金を取られる
ホテル5.1E£
■ISRAEL
12/4 Jerusalem エルサレム
83,250km
エルサレム
イスラエル入国、カルネ不要
朝8時半に起きてお茶を飲んで、出発。途中でエンスト、そのすぐ後から3人がやってきた。ラファから入国。朝からエンジンの調子が悪くイスラエルに入ってすぐエンスト。アラブ人の多い街の真ん中でだ。エンジンがかからない。そのうち子供に囲まれてしまいうがなんとか脱出。2度目のエンストで今度はイスラエル軍に取り囲まれてしまう。兵士がみんな若く危険を感じる。打つ気満々。3度もエンスト、なんとかエルサレムに向けて走ることができた。エルサレムに近づくと寒くなってきた。エルサレムの街に着きホテルに入る。
入国時にバイクの保険にはいらされる。1週間で31Sh、一番安い物に入ること。出国時に出国税US$15をとられる。
ホテル8Sh
U$1=1.55シエーケル
12/5 Jerusalem
エルサレム
朝8時半にうるさくて起きてしまう。外は雨だ。食事を食べ。4人でエルサレムのオールドシティーに観光に行く。 ホテル8Sh
12/6(日) Jerusalem

朝9時に起きて、観光に出かける。ハイファからピレウへのフェリーの料金を調べに行く。ツーリストクラスでU$70に税金、バイクはU$39。エジプトに戻り、アレキサンドリアからフェリーに乗るための旅費と比べててみる。結局エジプトに戻ることにする。

ホテル8Sh
12/7 TelAvivu /テルアビブ 朝8時に起きる。Oさんはすでにテルアビブに向けて出発していた。9時過ぎにテルアビブのエジプト大使館のそばまできたらOさんが待っていてくれた。エジプト入国のためのビザの申告が終わり、二人乗りでホテルに向かう。久しぶりに散髪に行く。 ホテル7Sh
ビザ36Sh
12/8 TelAvivu

朝11時に起きて、食事。日本大使館に行き、戻ってきたら、バイクを倒されたみたいで、ハンドルが曲がっていた、バイク屋で直してもらおうと思ったら、断られた。

パスポートにはエジプト入国時に購入した印紙が貼ってあった。テルアビのエジプト大使館では、それを剥がして、使い回し、金をポケットに入れていた。せこすぎだ。

イスラエルの入国時にパスポートに何もスタンプが押されなかったら、ヨーロッパから乗ってきたバイクを売れるようだった。日本人女性2人組はここでバイクを売った。

ホテル7Sh
■EGYPT
12/9 Cairo /カイロ83,580kmCairo

朝6時半に起こされる。3人はバスでカイロを目指す。
11時過ぎに国境に到着。出国税21.70Shを払い、エジプトに入国。
スタンプを押され、カルネで通関(14E£)、保険20.5E£、入国税2.50E£
12時半に出発、17時過ぎにカイロに着いた。疲れた。前回と同じホテルスイス

ラファからの入国時
ビザ36Sh
入国税2.50E£
カルネで通関=14E£
ライセンス・保険=20.5E£

アレキサンドリアからの入国時
ビザ=U$2+15.25E£
カルネ=12E£
ライセンス・保険=32E£

ホテルスイス7E£
12/10 Cairo 曲がってしまったバイクのハンドルの修正、うまく治らず潰れてしまった。 ホテル7E£
12/11 Cairo 昼過ぎに起きる。することもない。 ホテル7E£
■ヨーロッパ・GREECE
12/12 フェリー→ギリシャへ、84,173km

今日はアレキサンドリアからフェリーに乗る予定。
朝10時過ぎに出発。ギザを過ぎて砂漠に入ると激しい砂嵐だった。アレキサンドリアに近づくと雨が降ってきた。15時頃にアレキサンドリアに着いたが、フェリー乗り場がわからず、1時間ぐらいさまよってしまう。そしてエンスト。2時間ぐらいキックしたが、かからない。船の就航時間が迫ってきた。通行人に頼んでトラックを止めてもらい、バイクを積んでフェリー乗り場に19時頃到着。20時出発のフェリーになんとか間に合う。 毎回、誰かに助けられて、ピンチを乗り切ってきた。もってたお金を2人に払う。

※原因はプラクケーブルの接触不良だったが、分からなかった。ケーブルとプラぐキャプをつなぐ部分がサビで接触不良になり、火が飛ばなくなっていた。アテネでケーブルを少し切って対応した。
再びヨーロッパ
U$1=126.56ドラクマ
フェリー
12/13 フェリー泊 体のあちこちが痛い。
12/14 Athens /アテネ
Athens
朝7時半にピレウスに到着。食事をして荷物を部屋から出し、日本人とエジプト人は別々に降ろされた。日本人は最後まで待たされ、最後にパスポートをポンとこっちに投げてくる。バイクをフェリーから下ろしエンジンをかけたら、かかった。通関ではパスポートにバイクのことを記入されておしまい。3人は地下鉄でアテネに向かった。走り始めアテネに着いたのは10時前、ホテルを探したが見つからず、街を過ぎてしまった。また戻る途中バイク屋を見つけたのでパーツがあるか聞いたがなかった。ヤマハの大きな店があると教えられた。昼過ぎに手頃なホテルを見つけチェックイン。ともかく食事がてらシンタグマ広場に行くとFさんと会った。ヤマハの代理店とかに行ってみたが、なんの収穫もない。何軒かバイク屋をのぞいてみた。ガソリンスタンドでバイクの洗車、600ドラクマ取られた。荷物を全部部屋に運び整理した。 ホテル1600
12/15(日) Athens
アテネ
アテネ
朝10時過ぎに起きて、フェリーのチケットを買いにシンタグマ広場に行くと、また2人のFさん(福田・福地)に会った、彼女たちのホテルによって買い物に行く。Oさん(大鐘さん)んは明日出発することになったので今夜食事をしようということになった。福地さんは飛行機で日本に帰る。福田は一度ロンドンに戻る。みんなバラバラの道を行くことになった。それにしても特に打ち合わせなもしていないのに、アテネで再開できたことがとても不思議だ。 ホテル1600
12/16 Athens 今日はすることもない。 ホテル1600
12/17 Athens
84,220km
バイクに乗りオイル交換に行く。1000+手数料300ドラクマ(US10.27ドル)、アクロポリスの丘に行く、中に入るのに500ドラクマ。 ホテル1600
オイル交換
12/18 Athens 今日はすることもない。 ホテル1600
12/19 Athens 昼頃起こされる。福田さんと、フェリーの中で知り合った中野さんがやったきた。夜は4人で東洋食堂で食事。

※その後、エジプトを走った3人と再会することはなかった。それが旅というものか。
ホテル1600
12/20(日) フェリー
パトラ→ブリンディジイ
11時頃アテネを出発。走り始めてすぐに雨が降ってきた。パトラに向かう途中、またしても日本人ライダーに会う。自分の目の前をゆっくりと走っているバイクの見覚えのあるナンバープレート。声をかけ、パトラまで一緒に行くことになった。途中雨がひどいので休んで雨宿り。パトラで彼はYHに泊まるらしい。彼の名前は楠藤さんインドから走り始め、アフリカを周り南米に行く予定だそうだ。ローマで再会することにして自分はPM10:00発のフェリーでイタリアに渡った。 フェリー、74.27ドル
■ITALIA
12/21 Bari / バーリ 84,440km
16時過ぎにイタリアのブリンディジイ/Brindisiに到着、ホテルを探したがこれと行ったところが見つからない。先に行くことにした。夜の道を淡々とバーリ/Bariに向かって走る。風が強く寒い。そりゃそうだ12月だ。バーリに着いたのは19時過ぎ。大きな街だった。ホテルを探して走り回るが、クリスマス前で、車と人で街は大混雑。レジデンシアとかいうところに入った。ホテルはともかく綺麗で、高い。こんな立派なホテルじゃなくてもいいのに。 ホテル35500リラ
U$1=1215リラ
12/22 NAPOLI /ナポリ 朝9時に起きて荷物をまとめ銀行に。U$100両替するのに1時間近くかかった。クリスマス前で銀行も大混雑。11時過ぎにバーリを出てナポリに向かう。途中アウトスラードのスタンドでパンを食べる。ナポリに着いたのは15時過ぎ、駅で地図をもらいYHを探す。16時過ぎにYHに入る。今日はU$100が117,000リラだった(U$1=1170)朝食のパンとカプチーノで2900リラ、ガソリンは2600、コーヒーが1500リラ、高速が7500リラ、夕食7,000リラ。 YH10,000
12/23 ROMA /ローマ
ROMA
朝9時に出発。ローマに向かう予定。昼過ぎにローマに着いた。街中走り回り、15時過ぎにオリンピックスタジアムのYHに着く。インドからきた日本人と一緒になった。17時すぎやっと中に入れた。夕食を食べてシャワー、お湯がぬるい。 YH11000
12/24 ローマ
ROMA
ROMA観光、Vatican観光 YH11000
12/25 ローマ ローマ観光、アテネで会った楠藤さんはまだこない。夕方17時過ぎに楠藤さんがやってきた。借りた本を返しす。 YH11000
12/26 MILANO /ミラノ

9時に2人の日本人に送られフィレンツェに向かう。北上してきたので寒い。昼過ぎにフィレンツェに着く。泊まろうか迷ったあげくミラノまで行くことにした。18時前にミラノについた。ミラノに行く訳は日本からの送金を受け取るためだ。中央駅を探して街を走り回りやっと見つける。駅でともかく両替。それからホテル探し。バイクは外に置くことになった。ロンドン以来だ。今日で32歳になった。イタリアで35000リラ出すととても綺麗なホテルに泊まれる。今日走った距離は590km、使った金は52,500リラ

ホテル35000
12/27(日) ミラノ また中央駅まで行き、地図をもらうつもりだったがやってなかった。結局キオスクで地図を買った。地下鉄で街に観光に出る。ドゥオーモに行ってみた。街をぶらつき送金先の銀行を見つける。明日受け取りに行く予定。 ホテル35000
12/28 ミラノ
朝から銀行にいき送金を受け取る。全て米ドルキャッシュで受け取るにはU$344手数料が必要だと言われ、もっとも手数料が安い方法で受け取ることにした。T/Cが半分とキャッシュが半分で受け取った。その後、旅行代理店を探しフェリーの切符を買う。ホテルに戻りバイク屋を探しに行くが見つけられなかった。またホテルに戻り今度は地下鉄でヤマハに行き、パーツを買えるところを教えてもらい帰宅。

フェリー、ジェノバ→チュニス、175,200リラ(U$149.74ぐらい)
ホテル35000
フェリーU$149.74ぐらい
12/29 ミラノ
85,697km
バイク屋に行く、最初に行ったバイク屋は不親切だったが、エアフィルターを買うことができた。ハンドルはなかった。次に行ったバイク屋は修理しかやっていなかった。ヤマハが1月7日まで休みだからパーツは買えないと行っていた。その側のバイク屋でタイヤを買って交換、少し小さいサイズのタイヤしかなかった。その次のバイク屋でチェーンとプラグを購入。昼休みのため15時まで待って再びバイク屋に行く。

エアフィルター/US$37.71、チェーン/US$101.69、プラグ4本/US$13.56、フロントタイヤの交換/US$103.39
ホテル35000
エアフィルター交換
チェーン交換
プラグ4本購入
Fタイヤ交換
12/30 GENOVA /ジェノバ

10時にミラノを出発。タイヤが小さかったため、ハンドルが振られてひどい。何度か荷物を積み替えて、ジェノバまで100kmぐらいなのに時間がかかった。13時過ぎにジェノバのYHに行ったら、しまっていた。ホテルを探していたら、バイク屋とかタイヤをたくさん売っている店を見つけた。ここで買えばよかった。手頃なホテルを見つけチェックイン。ミラノではなくジェノバのほうがバイク屋が多かった。

ホテル19600
12/31 ジェノバ バイクの整備。チェーンを張って給油するだけなのに時間がかかる。14時頃からセントロに行く、小雨が降っている。明日は元日だ。
プラグの交換オイル1リットル/6.78US$(モチュール4T)
ホテル19600
プラグの交換
1988/1/1 ジェノバ 午前0時、年が明けた。昨夜の24時頃から花火がバンバンなっている。ジェノバの片隅のホテルで新年を向かえた。 ホテル19600
1/2 フェリー→チュニジア
85,270km
昼頃ジェノバのフェリー乗り場に行く。16時過ぎからボツボツ乗船できた。切符を買ったらその切符を係に見せてバイクのナンバーを書いた紙をもらいオフィスに入ってチュニジアの入国カードをもらう。バイクは全部で40台くらいきていた。ドイツ人のバイクは驚くほど手の入ったものが多い。イタリア人のバイク野郎はとても親切。チュニジアの入国カードの書き方分からなかったとき教えてくれた。二等はやっばり船底クラスで、小さな部屋にベッドが4つあるだけ。
ホテルをチェックアウト時にパーキング代として9000リラとられた。
フェリー泊
■北アフリカ・TUNISIA
1988/1/3(日)
Tunis /チュニス

北アフリカの旅 PM4:00着、
船の中で入国手続き、カルネでの通関。船で昼食を食べ16時頃バイクのところに行き、降りる順番待ち。外に出ると入国手続きの済んだ用紙を2枚渡して終了。荷物検査も何もない。すぐ12km離れたチュニスにいき、ホテルアフリカで両替。街はとても綺麗で拍子抜けしてしまう。ガイドブックに載っていたホテに入る。バイクはホテルアフリカの駐車場に置いてくる。荷物を置いて食事に出る。
ホテル4.8TD
U$1=0.785ディナール
1/4 Tunis アジェリア大使館にビザの申請。チュニス観光 ホテル4.8TD
1/5 Tunis アジェリア大使館にビザを取りに行く。またバイクを倒しバッグが割れる。チュニス観光 ホテル4.8TD
1/ Tozer /トズル 10時過ぎにチュニスを出発。南下し、トズルで泊まる。高い割にあまりよくない。 ホテル7.8TD
1/7 Nefta /ナフタ トズルからナフタまでは20kmあっという間に着いた。ここで泊まりバイクのせいびをする予定。チェックインし予定どおりバイクの整備。割れたサイドバックの修理。 ホテル7.8TD
■ALGERIA
1/8 El Oued
エル・ウェッド 86,494km

アジェリア入国
Neftaからアジェリアへの入国時には強制両替はなかった。バイクの書類を見せろと言われるが、そんなもは無い。カルネを見せたらカルネをきられた。入国時に2枚の申告用紙に記入。その後、バイクのための書類、デクラレーションフォーム(外貨申告)、強制的に保険に入らされ、20日間で70DA。Neftaからアルジェリアに入国するのは、一般的なルートらしく、意外にすんなり入国できた。
街につきブラブラしていると日本人を見かける。レストランに入るとさっきの日本人がここでカメラを盗まれたらしく、警察が来ていた。この人と2人で同じホテルに入る。
一食食べると40〜50ディナールと物価が高い。ガソリン(リッター72円ぐらい)も高い。一日U$20ドルを超えてしまう。

ホテル1人、35DA
U$1=4.89ディナール
1/9 Gardai /ガルダイヤ 朝起きたら、もう1人はバスの時間があるとかで早めに出て行った。9時過ぎに出発。エル・ウェッドを目指し走り始める。ここをすぎると美しい砂丘が広がっている。その風景を見ながらいくつかの街をすぎる。ガルダイヤまでは風が強く走りにくい。何台ものバイクとすれ違う。ガルダイヤに着いたのは17時過ぎ。キャンプ場に入ることにする。キャンプ場の中はトレラーやジープばかりだった。他のバイクはどこにいるのだろう。テントに荷物を置いて食事に行く。スープと鳥で30DAだった。今日初めての食事、砂漠の中でパンとビスケットしか食べていない。今日は400km走った。ガルダイヤは大きなクレーターの中にできた感じの街だ。街は18時をすぎると嘘のように静かになる。 キャンプ45DA
1/10(日) El Golea
エル・メニア

ビスケットとお茶で食事。10時頃出発。ポリタンクを13DAで買い、ガソリンを入れ出発。エル・メニアまでは270km何もない砂漠を走る。最初は岩砂漠で、エル・メニアに近づくにつれ砂が風で移動し道路を覆っている。注意しながら走る。14時過ぎにエル・メニアの大きなホテルに入ってしまう。キャンブ場もあったが地元の人間がたむろしていたのでぱバス。15時頃にはどこの店もしまっていた。とりあえずビスケット(5DA)とみかん(1kg-14DA)を買って帰ってくる。夕方タバコを探して街を彷徨う。どこにもない。それもそのはず、外から見えないところにあったのだ。地元のタバコは3個で13DA、マルボーロは1個で17DA。ガソリンスタンドは一軒しかない。明日はイン・サラーまで行く予定。その先のタマンラセットまでは行けそうもないので諦めることにする。

街道沿いでバイクを止め、タバコを吸って休憩していると、大型トラックが目の前に止まり、ドライバーが降りてこちらにやって来た、警戒し、身構えていたら、私の使っていた、冬用のグローブをさして、手が冷たいから、それをくれという。いったいこいつら何なんだ。

ホテル142.5DA
1/11 In Salsh
イン・サラー

朝起きると、イタリア人3人組が出発して行った。フェリーで一緒だったスイス人のXT600が出発の準備をしていた。途中でガソリン5リットルを買う、これで全部で約23リットル持った。最初の210kmぐらいは舗装が続くが、舗装が切れ、工事中らしく、砂漠の中を走ることになる。ただこの辺りは硬く、砂利道のような感じだ。何本も何本もトラックが走ったワダチが残っている、ワダチは砂が浮いていて滑るので固いところ選んで走る。このバイクでは40km以上出せそうもない。途中でビスケットとみかんと水で食事。すでに13時を過ぎている。ポリタンクのガソリンをタンクに入れ、出発。やっとインサーらに着いた。ガイドブックに載っていた安い方のホテルに行くがなくなっていた。もう1つのホテルは90DAのはずが142DAになっていた。ホテルに入るとXTがいた。なんと砂漠の中のホテルはお湯が使える。夕食はまたフランス料理だった。つまりこの辺りはフランス人の遊び場なのだ。オフロード車を持ち込み、走り回り、夜は高級ホテルで食事。夜空を眺めれば星がチリのように輝いている。

ホテル142DA
1/12 El Golea
エル・メニア
エル・メニアまで戻ることにする。今日もオフロードを60km以上走ることになる。くるときに見かけた小屋に帰りは寄って見たら、食事ができた。と言ってもオムレツにフラドポテトが入ったものだけ。今日はエル・メニアまで行きまた同じホテルに入る。 ホテル142.56DA
1/13 Timimoun
ティミムン 88,493km
折れたフレーム
9時過ぎに出発。ティミムンに向かう。延々と砂漠を走る道路は悪くない。15時過ぎにティミムンに着く、とりあえず両替。また141DAのホテルがあるがやめにしてキャンプ場に入る。荷物をおろし買い物にオレンジ(1kg-12DA)タバコ3.5DA、砂漠の街はみんなオアシスなのだ。夕食は街のレストランで食べた。
キャンプ30DA
1/14 Timimoun
フレームが折れたSRX

10時頃起きてバイクの整備。またフレームが折れていた。荷物を全部おろし溶接屋に行く。溶接はガスではなく電気だったがしょうがない。もう折れないように補強を入れてもらった。何度も折れたので、フレームが曲がっている。リアホイルのダンパーにゴムを入れ補強。チェーンを張って、給油、オイル交換もする。夕方シャワーを浴びてボーッととしていると現地人がやってくる、旅行者に近づいてくる現地人は要注意。ろくなことはないと思ったがやっぱりそのとうり。しつこく両替を迫ってくる。交渉の結果U$1が9.5DAだった。通常の1.9倍ぐらい。彼らと一緒にレストランで食事、さらに夜は彼らの部屋でお茶を飲む。フランス人のツーリストや現地人が10人ぐらいやってきたが、みんなフランス語でしゃべっているのでつまらない。22時過ぎにテントに戻り寝てしまう。

オイル交換、 フレームの溶接・55DA、 ポリタンク13DA

キャンプ30DA
フレームの溶接・55DA
1/15 Beni-Abbes
ベニ・アッベス
10時頃出発、ベニ・アッベスに向かう。今日も砂漠の中をひち走る。街に着いたのは16時前また大きなホテル入ることにした。昼を食べてないの腹ペコ。ホテルの裏の砂丘に言って登ってみた。いい眺めだ。スープとパンで遅い食事。 ホテル142DA
1/16 Ain Sefra
アインセフラ 89,034km
10時頃出発、途中の小さな街のカフェで一息。レストランを探して入る。
ベシャールの手前でメーターケーブが切れた。風が強くて走りにくい、アインセフラ待てはまだある。17時過ぎ到着。また大きなホテルに入る。切れたケーブルを取り替える。このホテルはお湯のシャワーが使え、さらにスチームの暖房が入っていた。ここまできて判明したのだが、ところどころにある大きなホテルはEGTOというホテルチェーンだったのだ。昨夜はあまり寝れなかったので、今夜は早く寝てしまう。ここまでくるとアルジェリア人もなんとなく都会ぽくなってきた。
ホテル141.5DA
切れてから302km走る

1/17 Mostaganem
モスタガヌム

朝ホテルのロビーにXL600に乗ったスイス人カップルがいた。少し話をして、出発。アインセフラから200kmぐらい走ったあたりのカフェでお茶をのみレストランを教えてもらう。10kmぐらい走った所のレストランに入る。この辺りは砂漠も終わり、緑の草原が広がっている。オランには16時過ぎに着く。ホテルを探したが5星の豪華なホテルばかりだ。17時過ぎまで探したが、諦めて先に進んだ。モスタガヌムまでの道のりは緑が多く美しい。途中炎が見える。油田があるのだろう。ホテルはすぐ見つかった。チェックインして、食事に出かける。

ホテル140DA
1/18 Constantine
コンスタンティーヌ

9時頃出発、間も無く雨が降り出す。アルジェまでは小さな街をいくつも通り、しかもノロノロとなかなか進まない。アルジェに着いたのは16時過ぎ。大きくて綺麗な街だ。久しぶりに見た大都会だ。ホテルを探すがどこもいっぱい。すでに18時を過ぎている。アルジェは通り過ぎるだけということで先に進むことにした。最近このパターンが多い。通常なら、大きな街にはいる手前で一泊し、大きな街には午前中に入るようにしていたが、物価が高く余裕もなかったのだろう。無理しすぎてる。とことん落ち込むが、気を取り直し、ガソリンを入れ出発。この時点ですでに400km走ってる。コンスタンティーヌまであと100kmという所でキャンプできそうなところを見つける。もう限界だ。時間は午前4時。18時間以上走ってる。距離は800kmは走ったと思う。暗闇でテントを張って、シュラフに包まるが寒くてなかなか寝付けない。

多分バイクでの旅は頭で考えているより遥かにハードなんだろう。こんな風に宿に入れず、走り回ったことが何度もある。結局、野宿するのだから、早めに諦めればいいのだが走り始めるとそれができないし止まれなくなってしまう。

キャンプ0
1/19 Constantine
コンスタンティーヌ
朝10時に目がさめる。体も頭もガクガクだ。疲れがとれていない。荷物をまとめともかく出発。チェーンが伸びて、オイルが切れてガチャガチャうるさい、無理しすぎ。コンスタンティーヌに着いたのは昼過ぎ、とても不思議な街だ。山の上というか、台形の上に街があり、台形と台形の間に深い谷があり橋で結ばれている。
ホテルを探す、安そうなホテルはバイクを置けそうもない。しょうがなく大きなホテルに入る。つなぎもかなり汚れている。フロントでは嫌な顔をされるが構わない。すぐ食事に出る。水とサラダとハンバーグを頼んだつもりだったが、ミネラルウォーターに炭酸水、大きな魚、サラダにハンバーグが出てきた。魚が食べたいと行ったから出てきたようだ。もうどうにでも慣れ状態。ホテルに戻り、両替をしようとしたらもうだめ。明日だと言われる。外に出て銀行をさかし両替所に入るが、T/Cはダメだと言われ、他の銀行を教えてもらう。そこに行ったらもえ終わっていた。なんてこった。最初の銀行で、キャッシュで両替しとけばよかった。すでに16時をすぎていたのでホテルに戻る。シャワーを浴びようと思ったら、高級ホテルなのにお湯が出ない。何もかもが狂っている。なんでここにいる。ここは観光地だ。ちょと走り先の小さな街に行けばよかったのではないか。

チュニジア、アルジェリアの国境越えは、Hazoua→BonArouaが手続きが簡単だった。
ホテル181DA
■北アフリカ・TUNISIA
1/20 Ain Draham
アインドラハム 90,642km
起きて、朝食を食べに行き、ホテル台を払うためにU$40両替する。雨が降っていたので、カッパをきて出発。コンスタンティーヌの街も雨が降るとドロドロ、街から出るのにまた迷ってしまう。アンナーバを目指して走るが雨が激しくなってきた。途中食事をするがアルジェリアディナールが残りそうだった。アンナーバをすぎて国境に到着。すでに17時を過ぎていた。国境の税関で持っている金を全て見せて、ディバックの中を引っ掻き回された。やっと解放され、今度はポリスに出国カードに記入。ずいぶん待たされる。やっとおしまい、もう外は真っ暗。山道をノロノロと走る、もうチェーンが限界。もう寒さで体が限界だ。チュニジアに入国し、入国カードに記入して、バイクのパミットを記入、インンシュアランスを見せろと言われるがない。はじめにチュニジアに入国した時は何も言われなかった。結局一週間作らされ、4.0TD外に出るとサイドバックを開けろという。どうやら、国境越えの場所と時間を間違えたようだ。国境を越える人が少ないと暇な係員にもてあそばれてしまう。街に入ると検問、パスポートチェックだ。またしても係官の興味の対象になってしまう。パスポートにスタンプがいっぱい押してあると、いつものことだが1ページずつ物珍しそうに眺めくれる。そんなもの見てなにが面白いのか。ホテルに着いたのは19時過ぎだった。

ともかく金ばかりかかるアルジェリアを出国できた。 エジプト、チュニジア、アルジェリアでは、アルジェリア人が一番親切でしかもおっとりしている感じだ。金・金とうるさいエジプト人。態度が悪いチュニジア人。次はトルコ人、シリア人、イラン人との戦いが待っている。

チュニジア入国、 入国時にわけの分からない保険代4TD、 係官の小遣いか??
チュニスから入国した時は、保険も掛けていないし、税金も払っていない。

※加筆中に思ったこと。
アルジェリアに一体、何しに行ったのだろう。アルジェもコンスタンティーヌも何も見ないで通り過ぎてきた。砂漠を見たかったのか。ペルーの砂漠やユマの砂漠と何が違う。これらの国に行く必要があったのか。遺跡と宗教建築以外に何もない。文化の香りもない。よくよく考えると旅行の計画に問題があったと思う。エジプト、チュニジア、アルジェリアよりも、もっとスペイン、フランス、ドイツ、イタリアをくまなく回った方が面白かったと思う。つまり、アメリカとヨーロッパの旅て良かったのではないだろうか。
ホテル13.5TD
1/21 Ain Draham
アインドラハム
9時に起きる、外は雨が降っている。しかも寒い。風も強くほとんど嵐だ。日昼を食べ一日ホテルのロビーでガイドブックを読むが飽きてしまい16時過ぎに寝てしまう。ホテルの食事はともかくうまい。ロビーの暖炉の周りに家族や客が集まり、くつろいでいる。 ホテル13.5TD
1/22 Tunis /チュニス

10時過ぎに出発。外はヒョウが降るほど寒い。一気にチェニスまで行く予定。チェーンは14,000kmで限界。14時過ぎにチュニス到着、また、同じホテルに入った。シングルの空きがなく6.5TDの部屋に入った。外に出て、両替をして食事。
昨日のホテルはともかく安かった。二日間で5食たべてコーラ2本、水を1ビン、コーヒーいっぱい、お茶一杯飲んだ。最後に払ったのは27.70TDだった。
旅行代理店を何軒か回り、フェリーのチケットを買う。チュニス→トラパニ/98.2TD、お金が足りなく、さらにU$30両替する。U$100出したらU$70の釣りが戻ってきた。こんなのは初めてだ。もうかなり洗濯をしてない、つなぎもドロドロだ。

ホテル6.5TD
(シャワーは別料金)
フェリー代98.2TD
1/23 Tunis 荷物の整理、観光。 ホテル5TD
1/24(日) Tunis 観光。 ホテル5TD
1/25 Tunis 観光。なんだか寝てばかりいる。 ホテル5TD
1/26 Tunis バイクで日本大使館を探すがわからない。 ホテル5TD
1/27 フェリー→イタリア 11時頃チェックアウトして、フェリー乗り場を確認し、カルタゴの遺跡を見に行った。遺跡の見える海辺に行くと、ドイツ人が4人で車でキャンプしていた。話しかけられたので話をしたら、砂漠の暑さで車のバッテリーがやられ、そこに足止め。車には二台のバイクが積んであったそうだ。5日間待ったも車が一台も通りかからなった。しょうがなく、1人が積んであった、バイクで助けを探しに出かた。バイクは途中途中にSOSを書き残したそうだ。それを通りかかった車が見つけ助けてもらったと言っていた。昼を食べににフェリー乗り場のある街に行った。サラダとステーキとコーラで2.7TDだった、しかも街で食べるより美味しかった。この辺りは魚料理が食べれるレストランが多いらしい。今更だが。15時過ぎにフェリー乗り場に行くと、チュニジア人が寄ってくる、余ったディナールをくれとか、フランをくれとか、一体何考えてる。今までいくつもの国境を超えてきたが、こんな連中を見たのは初めてだ。19時過ぎに乗船、動き出したのは21時過ぎ。キャビンクラスと行って買ったチケットはファーストクラスだった。シートクラスはチュニジア人でいっぱいだった。 フェリー、U$120.30
■ヨーロッパ・ITALIA
1/28 Mondello
モンデッロ 90,916km

イタリア入国
朝7時前ににトラパに着いた。入国審査はとても面倒だった。フェリー内でパスポートを受け取るのだが、荷物をいっぱい持って、しかも並ばないチュニジア人であふれていた。外に出て荷物検査。荷物を全部開けると言われたけど、例によって免除してもらう。街に出てともかく食事。その後ひたすらパレルモに向かって走る。パレルモには昼頃到着し、ホテル探しを始める。走ってるとバイク屋ばかり目に入る。街の中にはペンションもホテルもあったが、バイクを置けそうなところはなくうろうろしていたら、ベネトンの店に勤めているというお兄ちゃんがモンデッロに行けと教えてくれた。10kmぐらい先の小さな港町だった。教えてもらったペンションはクローズでやっていなかった。街をうろうろしていると、さっきのにいちゃんが車で探しに来てくれ、彼に連れられてホテルに入った、とても綺麗なところだった。オフシーズンらしく、あまり客はいなかった。ロビーでは家族のような身内ばかりの不思議なところだった。荷物は全て部屋に運びパレルモに行く途中食事。さっきのお兄ちゃの店に挨拶に行く。タイヤ屋に行くが思ったものがない。モンデッロは小さな港町だが魚料理が食べられるレストランが多数あった。

ホテル45000リラ
1/29 Mondello
モンデッロ
91,140km

朝起きて朝食をたのんだら、カフェオレとその辺で売ってい袋詰めのパンだった。パレルモに行き、両替とバイク屋探し。バイク屋の親父が探し回ってくれ、モトクロス用二本とトレール用一本を持って来た。トレールは使えそうなので買うことにした。その店でボーッとしていたら、昨日のにいちゃんがBMWの1000ccに乗ってやって来た。名前はピェールという。彼がバイク屋の親父と何か言い争っていたが。意味不明。ともかく彼に着いて行くことになった。すでに街は昼休み、15時から何処かのバイク屋にいくらいらしい。とりあえずモンデッロで食事、屋台のパスタとコーラ。ピェールがおごってくれた。15時過ぎ彼の兄の店に連れて行かれた。パン屋で、もう見世物状態。他のタイヤ屋に行ったが希望のサイズ(100/80-18)はなかったが、100/90-18があったのでこれを買って交換してもらうことにした。ミラノで買った90/90-18は大失敗。交換後はバイクが安定した。最初のタイヤ屋に戻り、トレールタイヤを買ってお金を払う。その後パーツを買いにヤマハの店に連れて行ってもらったが、なかった。モンデッロのヤマハにあると店の人が言っていたので行って見たら、もう終わりらしかったが、店の人を見つけ聞いて見た。またしても見世物状態。結局ハンドルはどこにもなかった。
フロントタイヤの交換(メッツラーM49・115,000/U$93.12)・リアタイヤ(ピレリーMT-40・90,000/U$72.87)、夜は近くのレストランで魚料理を食べる。

ホテル45000リラ
Fタイヤの交換
Rタイヤの購入
1/30 Mondello
モンデッロ
91,155km
今日は朝食も出ない。朝からものすごい嵐。どこにも行けない。11時頃から整備を開始。リアタイヤを外しダンパーにゴムを挟む。まだ使えるが、荷物を減らすため、クラッチワイヤ、アクセルワイヤ、ブレーキパッドの交換。チェーンとスプロケットは変えないことにした。16時頃終了。またまた、嵐が激しくなって来た。晴れてる間に食事、また魚料理を食べた。帰って来て荷物の整理をする。ホテルには団体が泊まりに来ているようでパーティーをやっていた。 ホテル45000リラ
1/31(日) Messima
メッシーナ

11時に起る。団体がキッチンで食事をしていた。今日は風が強く、雨が降りそうだ。お金を払って出発。道に迷い時間をロスするがメッシーナまではそんなに遠くない。とうとう雨が降り出す。ガソリンを入れ、パンとコーヒーで食事。カッパを着て走り出す。走り初めて50kmぐらいで雨風が激しくなって来た。道路沿いのバルに駆け込む。バルには数人の男がカプチーノを飲んでいた。木が倒れそうなぐらい風が強い。結局ここに1時間ぐらいいてしまったが、すぶ濡れでカッパ姿の日本人と現地のおじさん達とがとても微妙な雰囲気。少し落ち着いたのをみて出発、今日はブーツカバーも装着済み。街の中でエンスト、リークしていて、火が飛んでいない。かなり日が落ちて来た、アウトストラーダにのり、先を急ぐ。メッシーナに着いたのは19時頃。ホテルを見つけてチェックイン。風呂なしで28000リラ。シャワーは別料金で10000リラ。ガレージにバイクを置いて食事に出る。ホテルに戻るが寒い。いつまでも体が温まらない。風呂に入ることにする。なんとバス付きでお湯が暖かい。たっぷりお湯をため1時間近く入っていた。シシリアはおもしろそうなところだ。ワインディングロードが続き乗っていて飽きない。アウトストラーダはとても空いている。シシリア人は優しく親切だった。
フェリー代41,000

ホテル38000リラ
ガレージ8000リラ
2/1 Taranto /ターラント

9時過ぎに起きる。バルで食事をして、出発。ガレージの使用料8000リラを払った。天気はまあまあ。フェリー乗り場で40分ぐらい待って出航。11時過ぎにイタリア本土に到着。アウトストラーダをひたすらバーリを目指して走る。今日はターラントに泊まる予定。山間の道を走り、小高い山の上に街がある。不思議な感じのところだが、ゆっくり見ている余裕もない。夜の山道を100kmぐらいで走りターラントに向かう。17時過ぎに到着。アルベルゴの看板の前で中を伺っていたら、ちょうどフロントのおじさんが通りかかり、バイクを中に入れてくれた。もうヘロヘロで話も満足にできない。すぐ食事にでる。ビアホールのようなところで食事。スパゲティと肉とコーラで11000リラ。ホテルに戻りすぐ寝ようとしてもかなか寝付けない。今日は500kmぐらい走ったことになる。アウトストラーダは全区間が有料ではなく、ところどころ無償で走れる区間があった。

ホテル21000リラ
フェリー41,000
2/2 Bari /バーリ
92,117km
バルでパンとコーヒーで食事。バーリに向かう、70kmぐらいしかない。11時ころ到着、街は車と人で混雑している。フェリー乗り場の真ん前の代理店でチケットを買う。バイク代込みで71,000リラ。昼に出て夜に着くという。時間が変わっていた。この後バイク屋を探し、見つけたバイク屋でチェーンを買う、Oリング入りはなかった。というより、聞いたことないメーカーだったので、DIDの普通のチェーンを買う。ついでにオイルを5リットル買う。こんなに必要かどうかわからないが買っておくことにした。そしてホテル探し。街は昼休みでひっそりしている。バイクの整備をしたかったので、バイクの置けそうなホテルに入る。高かった。オイルは普段持って歩いてる2リットル入りの缶に移し変える。よく見るとスプロケットが歪んでる感じがする。チェーンの張っているところと、伸びてるところの差が激しい。オイルをチェックするとかなり減っていた。整備している時バイクを倒してしまった。必要のないブレーキレバー交換。プラグを見たら電極が減っている。今まで見たことのない現象。交換する。イタリアで予定していたのは、タイヤの交換、チェーンの交換、スプロケットの交換、オイルの交換、ヘルメットの購入。そのうちできのはフロントタイヤの交換。

チェーンの購入32.92US$、オイルの購入5リットル、プラグの交換、ブレーキレバーの交換
ホテル63000リラ
チェーンの購入
オイルの購入
プラグの交換
ブレーキレバーの交換
■JUGOSLAVIJA
2/3 Dubrovnik
ドゥブロブニク 92,122km
ドゥブロブニク

ユーゴスラビア入国
朝8時に起き、朝食を食べ、9時頃出発。すぐフェリー乗り場に向かう。走り出してすぐ電気類が動かない。フェリー乗り場で確認するとブレーカーが上がっていた。これも今までにない現象。フェリーは12時過ぎに出航。イタリアリラがかなり余ったが、フェリーの中で使える。季節外れなので客は少なかった。16時頃シートの上で居眠りしてしまったが、ユーゴスラビア人が、同じ音楽を大音量で何度も何度も鳴らしていた。大きなラジカセを買ってきたようだ。船は19時半にドゥブロブニクに到着。ポリスが入ってきて、パスポートにスタンプを押されて、終わり。フェリー乗り場で両替。イタリアリラの残り19000リラも交換。ホテルを探したがよくわからない。しょうがなくフェリー乗り場の前のホテルに行く。ホテルはカテゴリーBだった。すぐ食事に出かける。レストランで、コーラと肉とスパゲティの盛り合わせ、キャベツの酢漬けとパンで3,950Din。安い。 これでカテゴリーDクラスのホテルに泊まれば、かなり低予算で旅行できる。ホテルはシングルだが異常に狭い。日本でいうビジネスホテル。

ホテル20,700
U$1=1326.50ディナールAM12:00発フェリー
(U$57.49)
2/4 Titograd
ポドゴリツァ
朝9時に起き、朝食を食べ、10時頃出発。天気が悪く雨が降りそうだ。ブドヴァて止まるつもりだったが、小さな街で、何もない。昼食を食べる。スープとサラダとステーキで5700Dinだった。途中スピード違反で捕まる。これも初めて。その場で3000Din取られる。ブドヴァ街をすぎると峠になる。雨が激しくなり。カッパに穴が空いてるので水漏れする。すごく寒い。ポドゴリツァに着いたのは16時過ぎ、広い通りに面した大きなホテルに入る。ここもカテゴリーBだ。ホテルにチェックインしてすぐ、警察がやって来た、バイクが目に留まったようで、誰のものか確認しに来たようだ。ホテルのロビーに入れるよういってかえって行った。 ホテル19,000
2/5 Titova Mitrovica
コソフスカ・ミトロビツァ
(クマノヴォ)
朝9時に起き、朝食を食べ出発の準備。外は雨が降っている。最初にガソリンを入れる。1リットル700Dinだった。街を出るとすぐ山道となる。気の遠くなるような山道を延々と走る。ひたすら走る。峠を登ったところで検問。パスポートの一言だけ。寒さと雨で手がかじかんで、ハスポートがなかなか出てこない。カッパをきちんと着ようと思うのだが、ボタンも閉められない。
途中ドライブインのような、バスターミナルのような、食堂で、食事をした。肉の盛り合わせとコーラとサラダとスープで6800Dinだった。まずかった。誰も話しかけてこないし、人々の雰囲気が異様に暗い。なんとなく2種類の人種かグループに分かれているようだ。カッパを脱いでタバコにひをつけると、じっと様子を伺っていた親父がすかさずタバコをくれと言っている。もう嫌で嫌で反吐が出そうだ。なぜ外国人と見るとものを欲しがるのだ。タバコが吸いたいなら、買え。買えないなら吸うな。食事をしているとバズが来て、みんないなくなる。また山道を延々と走る。片側は崖で、ところどころ崩れている。夕方街に着く、チェーンが伸びきってカチャカチャ言ってる。バイクは水を浴びると止まってしまう。街をうろつき両替し、ガソリンを入れる。ホテルはあるが場所が悪い。先に行くことにする。また雨が降り出した、途中モーテルを見つけたのでそこに泊まることにする。バイクを中に入れろと、うるさく言ってるが入らない。あっちこっち移動させられる。つまり人から見えないように隠せということだ。社会主義国家なのにそんなに治安が悪いのか。
ホテル18,000
■GREECE
2/6 Thessaloniki
テッサロニキ 92,880km
ギリシャ入国
朝9時に起き、朝食を食べ出発。昨日の寒さで体がまだ痛い。寒いが、雨が降っていないだけマシ。13時過ぎに国境の町に着いた。まだ40,000Din残っているがともかくギリシアに入る。入国は簡単。パスポートにスタンプを押されて終わり。入国し両替。40,000Dinは300Drになった。テッサロニキに着いたのは15時過ぎ。適当なホテルに入る。コーヒーを飲んで寝てしまう。19時半に目か覚め疲れか溜まってる。体がパンパンに張っている。下のレストランに行くがやってなかった。時差があり、すでに20時を過ぎていた。
ホテル1,994
2/7(日) Thessaloniki

朝10時に起き、朝食を食べ行く。そのまま駐車場に行きバイクの整備。チェーンを取り替えることにした。まだ使いたかったがしょうがない。スプロケットも前後交換。オイルとオイルフィルターの交換。エアークリナーの交換。まだ使いたかったが汚れがひどいので交換する。17時過ぎ作業が終了。

チェーンの交換(92950+1021km)、スプロケットF/Rとボルトナットの交換、エアークリナーの交換と掃除、オイル交換(カストロGTX2)、オイルフィルターの交換
チェーンは伸び始めると、毎日チェーン張りと給油。1時間ぐらいのことだが、センタースタンドがないので、毎回、荷物を全部下ろすことになる。バイクの選択を誤ったかもしれない。SRの方がよかったかもしれない。ハンドルは普通のバータイプがいいし、リヤサスは十分耐久性のあるものが欲しかった。キックとセルが欲しかった。チェーンは530サイズぐらいのものが良さそうだ。

ホテル1,994
チェーンの交換
スプロケットF/R交換
エアークリナーの交換
オイル交換
2/8 Thessaloniki 朝11時まで寝てしまう。外に出て食事。セメダイン、セロテープを買いホテルに戻り、カッパとブーツの修理をする。 ホテル1,994
2/9 Alexanoroupli
アレクサンドルポリス

朝9時に起き、朝食を食べて出発。昨夜隣がうるさくてあまり眠れなかった。天気はあまり良くないが、チェーンを変えたのでバイクは快調だ。13時過ぎに食事。ステーキとサラダ、コーラとコーヒーで900Dr。このへんの物価はユーゴスラビアとあまり変わらない。アレクサンドルポリスに16時過ぎに着いた。ホテルを見つけチェックイン。昼休みで街はひっそりしていた。荷物を置いて、バイク屋に行く。ヘルメットをみたがあまり良くない。ホテルに戻って食事。夜テレビでモンティパイソンをやっていた。英語でギリシャ語字幕。シャワーは熱々のお湯が使えた。

ホテル3000
■TURKEY
2/10〜2/22 Istanbul
イスタンブール
Istanbul

朝9時に起き、朝食を食べて出発。トルコの国境まで40kmぐらい。ガソリンを入れ国境へ。ギリシャの国境の免税店でフィルムとタバコを買う。トルコの入国も問題なかった。パスポートにバイクのことを記入された。イスタンブールに着いて、 多くの日本人が宿泊していたホテルモラにチェックイン。ロビーで久しぶりの日本人にあった。
イスタンブールで沈没。それもそのはずだ、チュニジア、アルジェリア、イタリア、ユーゴスラビアと実にハードだった。もう旅をすることに疲れていたのかもしれない。
だらだらしているうちに12日間があっという間に過ぎた。
トルコ入国
93,330km
ホテル4000×13
U$1=1200リラ
2/23
ブルサ
宿に泊まっていた日本人数人で、ブルサの温泉に行く事になった。バイクはホテルモラに置いて、バスで出かけた。 ホテル6500、バス代5,100
1泊・バス旅行
2/24 Istanbul
イスタンブールIstanbul
一泊旅行から戻り、またホテルモラに。 ホテル4000
2/25 IstanbulIstanbul ホテル4000、シリア大使館・ビザ13,000リラ
※シリアのビザをとるには日本大使館の紹介状が必要。
最初に日本大使館で紹介状を書いてもらい、また、翌日、シリア大使館にビザをとりに行く。約10ドル。11時までに行くこと
ホテル4000
2/26〜 3/7 Istanbul
イスタンブールIstanbul
シリア大使館受け取り、トプカプ宮殿。イスタンブールにいた人たちは、フィリピン、タイ、インドを回ってイスタンブールにきた22歳。アフリカを回ってヨーロッパアルプスに登ってイスタンブールにきた27歳。オスローで会ったカップルはヨーロッパとモロッコを周り、イスタンブールにきた24と27歳。自転車でチベット、ネパール、中近東を回ってイスタンブールにきた26歳、卒業旅行でイスタンブールにきた女子大生5人。 ホテル4000×11日
3/8 Busa /ブルサBusa みんなに見送られて10時過ぎに出発。イスタンブールを出ると1時間ぐらいで雨が降ってきた。ドロドロになって14時過ぎブルサに着いた。前回来たホテルに入った。 ホテル4000
3/9 Izmir /イズミル 朝10時に起き、11時頃出発。チャナッカレに行く予定だったが、イズミルに行く。トルコは雨が降ると道路がドロドロになる。トラックやバスが跳ね上げた泥水をあびながら進む。16時過ぎにイズミルに到着。少し走って海岸沿いのレストランで食事。安いホテルが固まってる地区に行き安ホテルに入る。モラよりも汚いが4000。 ホテル4000
3/10 Denizli /デニズリ 朝10時に起き、11時過ぎ雨の中を出発。Aydin/アイドゥンから海岸沿いを走る予定だったが道を間違えた。デニズリの方に進んでしまった。途中雨宿りをしていたら、何かの倉庫だと思うが管理人が中に入れと誘ってくれたのでチャイをもらう。走りはじめまたデニズリを通り過ぎて、山の中に入ってしまった。周りは雪だらけ、しかも道路の舗装が切れている。30kmぐらい走り、地図をみてデニズリに戻ることにした。ホテルはこぎれいなところに入る。濡れたものを干して食事に出る。戻ると日本人の女の子が1人いた。夕方のバスでイスタンブールに戻ると言っていた。デニズリからパムッカレ石灰華段丘への観光の拠点らしかった。2時間ぐらい話をした。彼女曰く、トルコは女1人で来るとこじゃないとのことだ。 ホテル12000
3/11 Alanya /アランヤ

朝9時半に起て食事。荷物をまとめ10時過ぎに出発。内陸は山が多く、雪が積もっている、とても寒い。アンタルヤに15時頃着く。アンタルヤかシデに泊まる予定だったが、シーズンオフで寂しいのでアランヤまで行くことにした。18時頃到着、ホテルに入り、荷物を運びバイクを洗わせてもらう。バイクのチェーンを張っていたら数人のトルコ人に質問ぜめにあう。

ホテル4000
3/12 Mersin /メルスィン 朝9時半に起て食事。天気がいい、久しぶりの青空だ。アランヤからメルスィンを目指す。走り始めてまもく道が狭いワインディングロード。淡々と海沿いのワインディングロードを走る。途中で食事。夕方到着。メルスィンは近代的な街だった。 ホテル11000
3/13(日) Antaky
アンタキヤ
朝8時半に起て食事。昼も食べないでアンタキヤを目指して走る。アンタキヤの街は嫌な感じだった。トルコ人というより、図々しいアラブ人の街と言った感じだ。一番大きなホテルに入ることにする。 ホテル15000
中近東・SYRIA
3/14 Aleppo /アレッポ

朝9時半に起て食事。11時頃に国境に到着。

シリア国境では、最初デクラレーションを記入そして警察で入国カード2枚に記入、そして強制両替US$100(1120ポンド)。レシートを持って再び警察へ、台帳に記入するまで待つ、その後税関に、まず保険に入るように言われ、ふたび銀行に行き両替、US$27(302ポンド)でを受け取るはずが、渡されたのは300ポンド(2ポンドネコババ)保険のオフィスで保険証書を作ってもらい、再び税関でカルネを提出。さあ入国という時に、イスラエルに行っただろうと言い始めた。どうやらカルネのスタンプのラファの文字が目に入ったらしい。しかし、カルネにはイスラエルのスタンプは無く、エジプトの次はアルジェリアになっていた。不思議そうだったが、パスポートを見せて納得させた。イスラエルはカルネが不要だったのだが、そんなことシリア人は知らなかった。
既に134ドルも払ってしまったので、引き下がる分けにはいかない。なんとか納得したようだ。税関ではさらに75ポンド払うように言われる。なんなのか聞いたら通行料だという。75ポンド払うと、もう5ポンド出せという。仕方なく10ポンド札を渡すと釣りをよこさない(またネコババされる、毎度のことだ)。入国時の荷物検査は、荷物を降ろしてあけてみせたが、適当。全部を開けて3時間かかってやっと入国。ともかくシリアの国境の係官は汚い奴らばかり。

こんなにお金を払ってまでシリアに入国する価値があるのか疑問。アレッポとダマスカスぐらいしか見るところがない。つまり行く必要はなかった。もっとトルコの街を回れば良かった。

※入国時保険代27US$+通行料7US$、強制両替100US$(1120ポンドになった??)
※国境でのレートは1US$=9.75。市内でのレートは1US$=28。闇だと1US$=35、シリアポンドは多く持っていても使い道がない。ガソリンはリッター10シリアポンド。
※ビザはイスタンブールでとった、日本大使館の紹介状が必要。約米10ドル。

15時過ぎにアレッポについた。ホテルはたくさんあったがバイクを置けそうなところは少なかった。やっと見つけたホテルで交渉、英語は通じない。ところが変なおっさんが割り込んで着て、英語で交渉に参加。最初8ドルと行っていたが6ドルで成立。チエックインしたら変なおっさんも部屋まで付いて来る、何かと思ったら最後にバックシーシ(金くれ)、こけそうになる。

ともかく食事に出る。料理3品とチャイで20ポンドだった。銀行のレートなら1ドルしないで食事ができる。ホテルは6階だったと思う。ホテルの従業員のにいちゃんは、勝手に人の部屋に入って来る、お金も払っていないのにチャイを持ってきてくれたり、部屋で髪をとかして行ったりする。訳がわからない。

シリア入国
95,556km

国境、US$1=9.75
市中、US$1=28
闇、US$1=35
むちゃくちゃ

ホテル6US$
3/15
Aleppo /アレッポ

ホテル代金は全てアメリカドルしか使えない、現地通貨は食事などに使う。外国人は自分一人のような感じで、気軽にカメラを出して写真を撮れるような雰囲気ではない、十分警戒が必要な感じだ。
11時頃起きてパンとヨーグルトのようなものを屋台で食べ、バザールを見に行く。どこまでも長々と続く不思議なところだった。一度ホテルに戻り寝てしまう。夕食はレストランに入る。ケバブを腹一杯食べて50ポンド。

ホテル6US$
ガソリン1L=10.5

3/16 Damascas
ダマスカス
Damascas

10時に起きて出発。ホテルで支払いをする。12ドルを払うとさらに10ポンドよこせと。言葉が通じないので意味不明。チャイの料金か? 荷物を下まで運んでくれたにいちゃん10ポンド渡して出発。15時過ぎにダマスカスに到着、地球の歩き方に乗っていた小さなペンションみたいなホテルに入った。どうやらホテルの主人はキリスト教徒のようであった。10ドルだと言われたが、9ドルにまけてもらった。部屋には暖房もなければ、シャワーもない。シャワーは共同らしく、一回15ポンド。お茶を頼んだら3ポンドだった。ダマスカスは近代的なきれいな街だった。歴史的な街だからもっと古い不思議なところだと思っていたが、そうではなかった。タバコは店にはなく露天で闇で買うことになる。またタバコを買うために歩き回ってしまった。

ホテルUS$9
3/17 Damascas
Damascas
食事がてら日本大使館に行き、新聞を読み、本を2冊かりて帰って来る。オールドタウンに行き、ウマイヤドモスクに入ってみた。壁に貼られたモザイクの美しさに見ほれてしまう。その後、アゼムパレスに行く。ウマイヤドモスクの入館料は2ポンド、アゼムパレスの入館料は1ポンドだった。18時過ぎに夕食に出かける。昨日と同じ、ケバブ、サラダ、ピクルスで51ポンドだった。 ホテルUS$9
3/18 Damascas
Damascas
お茶と昨日買ってきたパンで食事。博物館に行ってみた。中はかなり充実していた。またオールドタウンのスークに行ってみたが、今日は金曜日なのでほとんどの店が閉まっていた。夕食はまた、ケバブとサラダ。3日間同じ食事だが以外に飽きない。6時過ぎにホテルに戻るが電気が来てない。真っ暗でなにもできない。ホテルの兄ちゃんがローソクを持ってきてくれた。ベットで音楽を聴いているうちに寝てしまった。20時過ぎにホテルの兄ちゃんが火を消しにきたので目が覚めた。ダマスカスでは、チャイが2から3ポンド、タバコが一箱8ポンド ホテルUS$9
3/19 Damascas
Damascas
日本大使館に、借りた本を返しに行き、さらに4冊借りてきた。帰り際、茶店でチャイを飲みながら本を読む。21時過ぎに食事に出かける。またケバブ、豆と肉のスープ、ライス、サラダ、ピクルスで85ポンドだった。腹一杯食べた。 ホテルUS$9
3/20(日) Damascas
Damascas
雨が降っていたので、あまり歩き回れなかった、ハンドクラフトセンターやオールドタウに行ってみた。だらだらと街を見て回るが、そろそろ飽きてきた。ダマスカスで面白いのはオールドタウンだけで、一日あれば十分だった。 ホテルUS$9
3/21 Damascas
Damascas
朝から、ドイツ人と一緒に朝食を食べたが、あまり話す事が無い。こうなったのは昨夜、ホテルの主人から電話で、明日の朝、ドイツ人が朝食をとるから一緒にどうかと誘われたからだ。今日は特にする事もなく1日本を読んでいた。 ホテルUS$9
3/22 Damascas
Damascas
朝7時に起こされた。何事かと思ったら、朝食だった。昨日のドイツ人がまだいるのかと思ったら、今度はデンマーク人だった。二人で食事だ。ようするにこのホテルは、白人が泊まりにくるとやたらとサービスするということだ。白人が好きなのか、同じキリスト教徒つながりか?? また、今日もオールドタウンにいく。暇つぶしにはちょうど良い。明日は出発、晴れるかな。 ホテルUS$9
3/23 Palmyra パルミア
パルミア

朝起きて食事、今日はデンマーク人と、シリア人のキリスト教徒の3人だった。そのシリア人が食事の前にお祈りをする。アラビア語なのだろうか。食事を終え、荷物をまとめて出発。日差しは暖かなのに、走ると寒い。パルミアに15時過ぎに着いた。ツーリストインフォメーションの横のレストランで食事。またケバブといろいろで100ポンドだった。うむむ。遺跡以外には何も無く、ナツメヤシが茂っていた。ゼルビアホテルに入る、13ドルだった。ホテルの目の前10mぐらいのところに神殿があり、ロケーションは抜群。夜はパルミアの街にいき食事。今日もケバブとサラダなどで45ポンドだった。遺跡のレストランの半額だった。夜は、ライトアップされた神殿と、真っ暗な夜空に輝く星々が美しく、別の世界にいるようだった。ホテルの兄ちゃんが遺物のコインを買わないかと行ってきた。いらない。

ホテルUS$13
3/24 Palmyra パルミア
パルミア
遺跡を見に行く、その内の一つは有料で1ポンド払った。食事をしてから博物館に行った。遺跡にあったと思われるレリーフなどは、ほとんどが博物館に収納されいた。博物館のおっさんが二階にこいというので行ってみると、遺物のコインとが石とか次々に見せて来る。博物館のなかで遺物を売っていいのかよ。全部いらない。 ホテルUS$9
3/25 Raqqa /ラッカ 朝食をとり、出発。デリゾールに向かう。13時過ぎに到着。この街は暑いだけで見るものも無い。先に進み、ラッカに15時ころ着いた。チャイハネでお茶を飲んでいたら、軍服の若い男に声をかけられた。男に着いて行くと、現地人が利用するドミトリー式の安ホテルに連れて行かれた。久し振りの汚さだが、一泊25ポンドだった。初めてポンドでホテル代を支払った。若い兄ちゃんと街に散歩に出る。もう既にここは夏だった。街にはホテルが5軒ぐらいしか無い、なにもない所だった。街のすぐ横をユーフラテス川が流れている。 ラッカにホテル25ポンド
アジア・TURKEY
3/26 Gaziantep
ガズィアンテプ
トルコに向かうつもりだったが、ダムの街、サウラに出てしまった。しょうがなくアレッポ経由でトルコを目指す。アレッポには昼過ぎに到着。風が強く疲れた。食事をして、さらにトルコを目指す。国境には16時過ぎに着き、出国手続きを終え、トルコに入国したら、トルコ時間の16時前だった。シリアの出国手続は簡単で、スタンプを2個もらって終わり。残ったシリアポンドをトルコで両替したら、半分に目減りしてしまった。つまり、U$1=40ポンドといったところが相場らしい。さらに走って、17時半過ぎにガズィアンテプに着く。やや大きめのホテルに入った。それでも6500リラだった。自分の持っているドルのレートで、6ドル弱だ。シリアから比べるとかなり安い、というよりも、シリアが暴利なのか。今日はかなり疲れた、腕がパンパンだ。外に買い物に出る。パン、ジャム、マーガリン、砂糖、タバコを買って来る。全部3700リラだった。トルコに戻るとほっとする。物価も安く感じるし、何でも揃う。それだけシリアが厳しかったという事なのだろう。 97,060km
ホテル6500
3/27(日) Diyarbaklr
ディヤルバクル
Diyarbaklr
この辺りは高原地帯。大きな石がゴロゴロしている。少し寒いがもう春が来た感じだ。ガズィアンテプからウルファまでとてもいい道路だ。見つけたホテルは表通りから細い道を入って行くと、ホテルの中庭が広がっているところだった。食事をしてパンなどの買い物をして戻って来る。夕方チェーン張り。4000kmしか走っていないのにもう伸びている。 ホテル2500
3/28 Diyarbaklr 食事をした後、バザールをみて歩く。バザールは小さくて狭いけど、イスタンブールより面白いところだった。街を囲むように城壁が残っている。城壁の上に登り街をみて歩く。城壁の外側はチグリス川だ。 ホテル2500
3/29 Van /ヴァン 朝食をとり、出発。ヴァンに向かう。ヴァン湖に近づいて来たら、一面雪景色。道路は雪がなく、埃っぽい。インフォメーションでホテルを教えてもらいチェックイン。時間はすでに16時、1時間早まっていた。 ホテル4500
3/30 Dogubayazit バヤジト
アララト山
アララト山

朝食をとり、出発。天気はいいが寒い。バヤジトまでは道が悪く走るのに時間がかかる。15時過ぎに到着。ホテルも多く手頃なホテルに入る。荷物を置いてカーペット屋に行ってみた。ついにカーペットを買ってしまった。船便で日本に送る
聞いていたようにトルコ側の国境でイランの通貨を闇で買う。最初700から始まり、850まで来た。U$50のつもりが、財布の中にU$100しかなかった。100ドルで何日イランを旅できるだろうか。

ホテル4500
アジア・IRAN
3/31 Tabriz /タブリーズ

9時過ぎに出発、昨夜は雪が降ったらしく、道路がトロドロだ。トルコからの入国には時間がかかった。入国しイランのゲートを越えると軍のにいちゃんに質問ぜめ、パスポートをみて押されているスタンプをひとつひとつジックリとみて行く(単なる興味)。毎度のことだ。やっと解放され。ビルの中に入り入国カードをもらい記入。パスポートとカードにスタンプをもらうのに20分待たされる。係員がいないのだ。やっとスタンプをもらい、次はデクラレーション(外貨申告用紙)で、お金を見せて用紙に記入。その用紙に役人のサインが必要とかで、2km離れビルにサインをもらいに行く(ただの嫌がらせだよね)。お金を要求されるが、無いと言ってタバコ一本できり抜ける(横領)。また2km戻りパスポートと入国カード、デクラレーションフォームが揃った。さらに2km離れた税関に行く。奥に座ってるおっさんが来いというのでそっちにいのと、パスポートのスタンプや張ってある切手のひとつひとつを説明。またまた時間をロス。その後荷物を全部検査するというので持って行く。ざっと中を見ただけ。カルネを切られる。やっと終わり、2時間かかった。出口のゲートでバイクのエンジン番号を調べる。そんな物は無い。あるのは車体番号だけ。少し走って食事。ガキが集まって来る。うざい。少し走ってパスポートチェック。またスタンプをひとつひとつ見ている。もううんざり。ガソリンを入れ走り始め、またパスポートチェック。ここの連中はささっきと違う革命防衛隊だ。もうげろげろだ。またパスポートチェック。訳のわからない英語を喋る奴がしつこい。ヘルメットをとって中に入れと
プレハブの個室に連れて行かれ、背負っていたディバックを勝手にあけられ、中のものを取り出され、さらにしつこく入国の目的を質問される。1時間以上足止めされる。まあ、戦争中なのだから当然なのかもしれな。

次の街は大きなところだと言っていたが、村にも満たないところで、泊まれる宿もない。全身ドロドロ、バイクはまたフレームが折れ、ガタガタだ。少し走ってすぐ車に止められる。何かと思ったらバイク屋の前だった。そこの人たちがドット出て来る。そこでまたチャイを飲む。明日も来いと言われる。タブリーズまで走る。大きなホテルの前まで来るとホテルのおっさんが駐車場に入れという、すでに19時半。荷物を下ろし、すぐ食事、鳥の上にライスがいっぱい。

※公定レートは1US$=72、闇は1US$=900〜1000

※当時、イランはイラクとの戦争中で、入国するか悩んだが、広大なイランを通らないで陸路でインドにに向かうのは不可能だった。トルコではイランを通過してきた何人もの日本人旅行者から情報収集した。話では、戦争の影響はないといっていた。しかしみんなバスでの旅行だった。なので全然あてにならなかった。

イランに入国した今日は、今までの旅行の全てがあった気がする。ややこしい国境越え、バイクの不調、寒さ、雪、雨、興味本位でパスポートを全ページみるポリスや軍。金を要求する税関。ざっくり言ってアラブ諸国はもう行きたくないし、嫌いだ。

イラン入国/バザルガーン
98,170km
ホテル2400、
4/1 Tabriz /タブリーズ

11時に起きる。ホテルで食事。バイク屋には行かないことにした。ホテルの人にバイク屋を聞いたら、今日明日は休みだと言っていた。バイクに乗り、修理屋を探しフレームを直してもらう。ガス溶接(2000R)だった。前回と同じところが二箇所折れていた。ホテルの駐車場でチェーンの整備とオイル交換をする。オイルはもうドロドロだった。ホテルのレストランで食事、レストランは家族連れが多く、女性はキレイな人が多い。

タバコは闇で1箱550R、ガソリン1L=60R 10リットル買ってもUS1ドルしない
フレームの修理2000リアル、オイル交換

イランでの宿泊はすべて高級ホテルに泊まった。闇で両替していると、US4ドル程度で高級ホテルに泊まれる。それらの情報はトルコで、イランを通過して来た旅行者から仕入れていた。

ホテル2400R
フレームのガス溶接
2000R
オイル交換

4/2 Zanjan /ザンジャーン

10時過ぎに出発。腹が痛い食中毒かもしれない。昼にチャイ屋で休む。16時頃ザンジャーンに着く。今日は祭日とかでみんな閉まっていた。ホテルから食事に行く。また同じケバブにライスにコーラで1200R。大勢の家族がハイキングゃビクニックをしていた。これがイランなのだろうか。ホテにに戻って少し寝る。夜ロビーでテレビを見ていたら、またまたホテルのおっさんが闇両替しようと言ってきた。U$1が800Rだという。100ドル両替した。こんなに使いきれるだろうか。ホテルは暖房が入り、お湯のシャワーが出る。

ホテル2000
4/3(日) Theran
テヘラン
10時過ぎに出発。テヘランまでは一本道だと思っていたらまた道を間違えた。15時頃街につくが、広すぎて自分がどこにいるのか良くわからない。走り回り、なんとなくどこらへんにいるのかわかってきた。ホテルは少なく目立たない。小ぎれいなホテルキャラバンを見つけて入るが、あまり外国人を泊めたくないようだった。5日分の金をはらう。夕食にサンドウィッチを食べたが、腹がいたい。やっぱり食中毒だ。抗生物質を飲んで横になる。

イランでは闇で両替すると物価がものすごく安い、この安さを利用して多くの日本人旅行者はテヘランで日本に国際電話をしていた。もちろん自分もした。5分で4000R。探したしたホテルは、街の中心から少し離れた、バイクを中庭に置けるところだ。

ホテルキャラバン1400

 

4/4 Theran /テヘラン パンとチャイの朝食。今日は大使館に行って手紙などが無いか確認しに行く。大使館までは距離があり歩き疲れ、場所を聞いたらタクシーに乗れと言われ、タクシーを待っていると普通の車が止まった。大使館まで200リアルだった。つまり白タク。大使館では滞在先のホテルと、電話番号を書いてきた。大使館のお姉さんは、正月休みが終わったら、またミサイルが飛んで来ると言っていた。帰りも白タクに乗った今度はバザールまで1000リアルだった。ぼられている。昼食はサンドウィッチで200リアル。トイレットペーパーを探し、ぶらつくき輸入品などを扱っている店を見つけ、中に入ってみる。トイレットペーパーは4個で3200リアルだった。 ホテルキャラバン1400、※公定レートは
1US$=72
闇は1US$=720
4/5 Theran /テヘラン バザールやモスクの観光に出かける。戦争中なのでなかなか写真を撮れない。カメラを出すとあちこちにいる警官にスパイ容疑で逮捕されそうだ。バザールは閉まっている店が多く活気がない。バザール付近を観光中、屋台でサンドウィッチとコーラで昼を食べていたら、イラクからのスカッドミサイルが近くに着弾。ドカーンという音ともに周りの商店のガラスが全てはじけ飛び、激しい砂埃。周りにいたイラン人が側の店の奥に隠れたので一緒に隠れる。こんなボロイ店に隠れてもたいして意味が無い気もする。

その後、多くの人が走り出した。爆心地に向かっているようだ。一緒について行った。迷路の様な路地は人だらけで、周りには振ってきたガラスがささり血だらけの人たち、警察官、軍、消防車、興奮する人たち、集まって来るバイクや自転車、サイレンの音、怒号が飛び交い異様な状態。爆心地は瓦礫の山だった。写真を撮りたかったが、捕まるだろうからやめておいた。異様な光景だった。実際にミサイルが爆発するのを見たわけではないので、事故現場のような感じだった。

ホテルに戻ったのは午後15時を過ぎていた。ロビーでテレビを見ていたおじさんに話を聞くと、3発飛んできて上空で1発が爆発、2発が着弾したと言っていた。
ホテルキャラバン1400、
4/6 Theran /テヘラン

また朝からミサイルが着弾。その音で目が覚めた。

観光ついでに、インド大使館にビザをとりに行ったら、場所が違うと言われた。側にいたイラン人もビザをとりに行くというので、タクシーで一緒に連れて行ってもらった。日本人は簡単にインド大使館の中に入れたが、イラン人は簡単には入れないようであった。ビザを取るには日本大使館からの紹介状が必要だと言われ、ここでとるのを諦めた。

タクシーでバザール周辺に戻った。昨日の爆心地を見に行った。そのあと食品バザールに言ってみた。そのバザールの辺りでバイクを押していたイラン人に英語で話しかけられた。話をしているうちに、彼がテヘランを案内してくれると言う。彼のバイクでホテルに戻り、自分のバイクを出して、彼と二人で、テヘラン観光に出かけた。彼の名前はナセル。彼に連れられ、シュアアブドゥール・アジィーン(と聞こえた)や遺跡、いくつかのモスクの中に入った。当然異教徒は入れないところばかり。そして帰りに、彼の家で食事をごちそうになった。部屋には他に2人の男がた。兄弟で兄は31歳、弟は22歳。ナセルは36歳だった。女性が別のところから食事を運んできた。話では、テヘランには120発以上のミサイルが落ちたと言っていた。泊まって行けと言われたが、真っ暗で人っ子一人いないテヘランの街をナセルの案内で22時過ぎホテルに帰った。

シュアアブドゥール・アジィーン(多分、正しくは「シャー・アブドルアズィーム」だと思う)

ホテルキャラバン1400
4/7 Theran /テヘラン また朝からミサイルが着弾。その音で目が覚める。11時ころ日本大使館から電話があった、安全確認だということだ。早くイランから出国するようにと言われる。そんなこと言われてもまだテヘランだし、先はまだまだ長い。ナセルがホテルにやってきておみあげをくれた。彼が帰った後もミサイルが降ってきて、どこかに着弾、ホテルのドアが激しく揺れる。
バイクの整備、リアタイに釘が刺さっていたので抜いてパンク修理、夕方また、ミサイルが着弾。食事から帰ってきて明日の出発の準備をする。
ホテルキャラバン1400

4/8 Qom / コムコム

コム

また朝からミサイルが着弾。3時ころだった。また寝る。お茶とビスケットで朝食。10時過ぎにテヘランを出発し聖地コムへ向かった。テヘランを出るとすぐ砂漠になり、風が強く走りにくい。コムでは、2つのホテルで外国人はだめだと断れ、3つめのホテルにチェックインできそうだった。既に私の周りは人だかり、バイクに乗った日本人は相当珍しかったのだろう。チェックインではパスポートを宿に預ける。不安を感じたがしょうがない。荷物を部屋に置いて外に出ると、ホテルのおっさんに写真を取れと言われ、やっとイランで写真を撮れた。異教徒は入ることが出来ないモスク(ファーティマ・マスメフ廟)に、近くにいた子供たちに連れられ入ることが出来た。正面の参道には土産屋が並び賑やかだ。自分と同じ顔をしたアフガン人も多い。モスクの中は広場になっていてその壁一面にモザイクが張巡らされていた。奥には霊廟があり、棺か置かれている。その周りを回り、祈りを捧げる。
夜ホテルでテレビをみていたらクルド人に話しかけられた。随分難しい話をしているようだったが、半分もわからない。

※現在は、グーグルマップでファーティマ・マスメフ廟の内部を見ることができる。

ホテル1000
4/9 Isfahan
イスファハーンIsfahan
朝9時に出発しようとしたら、パスポートが警察に言っていると言われ、結局11時に出発。ひたすら砂漠の中を走り、15時過ぎにイスファハンに着く。迷いに迷い人に教えてもらい、やっとホテルにたどり着く。今日は大きなホテルで一泊3200リアル、約4ドル。外に出てハンバーガーとコーラで食事、190リアル。街は闇両替屋が多かった。 Ali Qapu Hotel
3200リアル
4/10(日) Isfahan
イスファハーン
昼頃外に出て、ツーリストオフィスに言ってみた。地図をもらう、というより120リアルで購入。モスクまで歩いて見に行くが人気がない。子供たちに声をかけられる、戦争でずっと学校が休みで、することかないようだった。 ホテル3200
4/11 Isfahan
イスファハーン
Isfahan
9時頃、ミサイルの落ちる音で目が覚めたが、体調が悪くまた寝てしまう。起きると掃除のおばさんたちが入ってきた。ミサイルは空中で爆発したようだが、それでもかなりの店のガラスが割れていた。疲れたので一度ホテルに戻りコーヒーを飲んでみたら、これが高い、580リアルだった。16時頃外に出て、買い物。本三冊とカセットテープ三本を買う。街を歩いていると、ともかく闇両替屋がうるさく声をかけてくる。 ホテル3200
4/12 Isfahan
イスファハーン
イスファハンは11世紀にセルジュークトルコの首都となったところで、戦争がなけれは観光地なのだろう。 ホテル3200
4/13 Shiraz /シーラーズ 9時過ぎに出発。食事も摂らないでひたすら走る。検問が多く不愉快な思いをたくさんした。決して逆らわないことだ。時間の無駄。ここまでくるとイランもだいぶ感じが違う。もうチェーンがたるたる。メーターが99999.9から0に変わった。ついに一回りした。ホテルを探すが英語の表記がなく分かりにくい。ボーッとしてたら車に突っ込みそうになる。パークホテルという高そうな名前のホテルを見つけチェックイン、3000リアルだった。街に出て食事と思ったが疲れてしまい、りんごを買ってサンドウィッチを食べてホテルに戻ると、子供がうようよいて、結局子供のおもちゃになってしまった。シラズはイスファハンより活気があった。 ホテル3000
メーターが99999.9から0
4/14 Shiraz /シーラーズ バイクのチェーンを張って、ガソリンを入れに行っただけなのに、またチェーンが伸びてしまう。まだ7000kmしか走っていないのに、もう限界。 ホテル3000
4/15 Shiraz /シーラーズ
ホテルで朝食を食べた。卵とトーストで610リアル。雲行きが怪しかったがペルセポリスに行ってみた。一時間ぐらい観光し、帰り始めたら、雨。あっという間にどしゃ降りになる。カッパを持ってこなかったのですぶ濡れ。ホテルに戻り、濡れたものを洗濯。 ホテル3000
ペルセポリス50リアル
4/16 Kermam /ケルマン 9時過ぎに出発、今日は550km走る予定。天気がいい、砂漠をひたすら走る。ケルマンには16時過ぎに着く。チェーンも伸びてメロメロ。ホテルのフロントはデブで雰囲気の悪い男だった。腹ペコだったが荷物をおろし、チェーンを張るが、うまく調整できない、コマを切って詰めたがそれでも、伸びてるところと張ってるところの差が激しいすぎ。
今日のガソリン代は600+420+360リアル。
Shiraz→Kermam間550kmを7時間で走る。ここまでくると戦争の影響も少ない
ホテル2600
4/17(日) Zahedan
ザーヘーダン
8時過ぎに出発、今日は530km走る予定。バムあたりまではいいペースで走れたが、途中ガソリンスタンドで電気が来るまで待つことになった。12時過ぎまで約一時間まった。暑い中、車やトラックも多数待っていた。パムを過ぎると本当に何もなく、熱風が吹く砂漠となる。まだセーターを着ていたので途中で脱ぐ。ザーヘーダンの手間で検問、さらに進んで検問、街の手前でまた検問。街に入るとまた止められる。街は広くホテルを探し回る。見つけたホテルの前で迷っているとまた人だかりになってしまった。もう慣れた。さらにホテル探し、やっと地下にバイクを入れられるところを発見。あまり綺麗ではなかったが高かった、2750リアル。18時を過ぎていた。暑さと疲れで頭がボーッとしている。
Kermam→Zahedan間530kmを9時間で走る
KNAVAR
ホテル2750
4/18 Zahedan
ザーヘーダン

起きて食事をしていたら、軍のパレードが通った。少しボーッとみていたら、現地人が着ている服を着た日本人らしい男が、警察に連行されていた。おそらく写真とかとって、スパイ容疑で捕まったと思われる。ここはイランの東端、日本の領事館なんかはない、簡単には出て来れないだろう。宿の駐車場でバイクの整備を始める。
イタリヤで購入し今日まで運んできたリアタイヤの交換。リムが落ちないので苦労するがやっと交換。チューブを入れて膨らませるが、なかなか耳が出ないので時間がかかってしまった。チェーンの交換DSD520VSR、チェーンはエンドレスなので、もう切って詰めたりできない。スプロケットFの交換、リアは交換しないでこののまま使う。整備が終わり、洗濯、荷物の整理をするがなかなか減らない。夕食は昨日と同じ、ケバブとヨーグルト、ライスにコーラで1190リアル。

ホテル2750
4/19 Zahedan
ザーヘーダン
食事に外に出るが食べられる所がない、探し回っているうちにパン屋を見つけるパンを買う。20リアル。朝食は買ったパン。パンと言ってもナンのような感じで、焼けるのをみんなが待っていて、焼けたら買って行く。 ホテル2750
アジア・PAKISTAN
4/20 Taftan /タフタン
11時頃出発。昼には国境に着くが、昼休みだった。結局15時まで待った。税関ではパスポートに出国スタンプを押して、カルネを切っておしまい。国境を超えたタフタンは荒涼としていて、バラックだらけだ。イミグレーションオフィスでパスポートを渡し外で待っている間に両替をした。パスポートを戻してもらう時、ビザが必要になったとか、お前の名前がリストに載っているとか散々嫌味を言われるが、もう気にもならなくなっていた。次はカスタムに向かい、そこでカルネを切る。台帳に記入。荷物検査、全て開けて見せる。終わったのは17時、2時間かかった。

砂漠のバラック村の中をホテル探し。車に載ったにいちゃんに教えてもらったのが、パルチスタンホテル。部屋はコンクリートの上にゴザをひいてあるだけ。チャイをもらうが塩っぱい、それもそのはず、水道はなく井戸水を小型のプールの様なところに溜めてある。まあー当然だ。砂漠なんだから。夕食は肉の上にコメを盛ったピラフ。それなりに美味しかった。部屋の中は砂だらけで、埃っぽい。部屋で買って来たみかんを食べてその皮を窓から外に捨てた。夜中ガサガサ音ががするので外を見ると捨てたみかんの皮を数匹のヤギが食べていた。草さえ生えていないからヤギも食べるものがないのだ。
出国税1500R
ホテル35ルピー
101,318km
4/21 Nok kundi
ノク・クンディ
Taftan(タフタン)からNokundy(ノク・クンディ)は悪路だった。それも聞いていたので覚悟はしていたが、SRXでふかふかの砂利道を走るのは辛すぎた。道路は洗濯板のようにガタガタで、車やトラックが削った砂や砂利が堆積していた。走り始めて60kmぐらいまでは耐えたが、あと半分がともかくキツかった。
結局、朝6頃から走り始め130kmを10時間ぐらいかかった。Nonkundyには18時すぎに着いた。街道沿いの日本の海の家みたいな食堂で食事をして、そのまま雑居寝。店の親父がバイクを納屋みたいなところに隠してくれた。
宿と食事で33ルピー
4/22 Quetta /クエッタ 6時に起きる。あまり眠れなかった。チャイとチャパティで食事。ガソリンを入れ出発。Nonkundyから道路は舗装となった。昼頃、ダルバンディンの街に着くが食事ができない、オイルを交換し先に進む。ダルバンディンからヌシュキまでの道路はところどころ工事中で、干上がった湖の中を走る、砂が深いところもあり、キツかった。ヌシュキには18時前に着いた。レストハウスに着いたが、外で待たされ中に入れてくれない。もう頭にきて、さらに先に進むことにした。ヌシュキを出てすぐバスや車が止まっていたので、自分も止まって仲間に加わった。みんなはスイカを切って何かを待っている。なぜ食べない。なぜ食事ができない。そうこうしているうにグループに呼ばれ、スイカをもらう。19時をすぎ、祈りの声とともに食事が始まった。どうやらラマダンだったようだ。 どうりでレストランが開いてないわけた。食事をした後、真っ暗な道をクエッタ目指して走る。着いたのは22時半を過ぎていた。今日も500km走った。ホテルに入ると日本人が3人いた。声をかけられ少し話をした。なんでこんなところで日本人に会う。なんの情報もなく適当に入っただけなのに。 ムスリムホテル30
4/23 Quetta 昼頃起きる。昨日とは違う日本人旅行者が来ていた。この人たちと一緒に食事をして街をみて回る。 ホテル30
4/24(日) Quetta 昼頃起きる。みんなで駅に行き食事。ラマダンでも駅のレストランはやっていた。外国人用にあいているのだろうが、外から見えないようになっていた。 ホテル30
4/25 Quetta 買って来たパンで朝食。バイクの整備をする。またフレームが折れていた。 ホテル30
4/26 Quetta 昼頃起きてパンを買いに行き、バイクのフレームの溶接。ただでやってくれた。ここであったのは西川夫婦と馬場さん。 ホテル30
バイクのフレームの溶接
4/27 Sukkur /サッカル 12頃出発。ラルカナに行く予定だったが、サッカルに着いてしまった。ともかく暑く、道が悪くスピードが出ない。着いたのは20時を過ぎていた。ホテルが見つからなく、ウロウロしているとダムの側のおおなホテルを発見。そこに入ることにした。部屋にはクーラーが入っていた。ともかく食事。サッカルの手前でポリスに止められ、水やチャイをご馳走になった。その側にいた鋭い目つきの集団が気になった。他のパキスタン人とは違い、ターバンを巻いて、目の下に黒く目張りを入れていた。パキスタン政府も介入できないと言われる部族エリアの人達かもしれない。 ホテル260
4/28 Multan /ムルターン 朝9時に起きて、食事をして出発。今日はムルターンまで行く予定。ともかく暑く、不快。ひたすら走るがとうとうダウン。コーラを飲みたかったがなかったので、水を飲み、少し横になる。1時間ぐらい寝てしまった。起きた時は人だかり。ラマダン中は日が昇っているうちに食事はできないので、日が沈むのをみんな待っていた。日が沈み、そしてみんなで食事。トラックの運ちゃんたちは、スイカやメロン、キュウリを切って食べている。もう周りは車やトラックで溢れてた。食事が終わり20時に出発。ムルターンに着いたのは22時を過ぎていた。街はとても広くわかりにくいところだった。また今日も大きなホテルに泊まった。 ホテル240
4/29 Dera Ghazi
デーラー・ガーズィー

朝9時に起きて食事をして出発。ムルターンの街から抜け出すのに2時間ぐらいかかってしまった。デーラー・ガーズィーの街に着いたのは13時頃。全然距離が伸びない。今日も朝から激しい下痢。この辺も砂漠、どこもかしこも砂漠。風か強く暑いのですごく喉が乾く。今日は安宿に入れた。この辺りの人たちはともかくうざい。バイクを止めるとみんな勝手に触るし、ヘルメットを置けば誰かが勝手にかぶる。相当な田舎なんだろう。それにみん同じ服装だから、ジーパン、Tシャツ姿はともかく目立つ。飯は肉を炒めトマトで煮込んだものとチャパティ。どこの店も同じ。ラマダンが明ける夜から街は賑やかになり、至る所に、外にベッドを並べただけの宿ができる。

ホテル24
4/30 Dera Ismail
デーラー・イスマーイール
朝9時に起きて食事をして出発。街から抜け出すのにまた2時間ぐらいかかってしまった。街から出ると道路は一車線でしかもポロボロ。たった200kmぐらいの距離がめちゃくちゃキツイ。途中休憩して、コーラとビスケットで昼食にする。昼間は何もすることがなく、みんなゴロゴロしている。全員暇をもてあましている。バイクを止めるとどこからともなく人が現れ、そしてまた人だかり。うんざりだ。走り始めてまた検問。中に呼ばれ水をのみ、またチャイをご馳走になった。必死に走りイスマーイールに15時過ぎに着いた。ホテルは以外に簡単に見つかった。しかし地図がないので、この辺がとこなのかさっぱりわからない。まだ腹の具合が良くない。バザールに行ってパンときゅうりと卵とコロッケを買ってくる。バザールに行くとパンダ状態。ともかく目立ち、人だかり。もうぐったり。 ホテル40
メーターケーブル切れ

5/1(日)〜5/21
Pesawar /ペシャーワル

朝9時に起きて食事をして出発。ペシャーワルを目指すが途中でまた道を間違えてしまい。60kmぐらい引き返す。ダラを通ってペシャワールに18時頃到着。カイバルホテルに到着。かなり北上したので涼しくて気持ちがいい。カイバルホテルには多くの日本人が宿泊していた。まだ5月なのに、なぜこんなに日本人がいるか。多分ごくわずかな日本人が一年中、世界を旅してるのだろう。そして同じようなルートを通るのでどこかで出会う。
ここで再び沈没。体調も悪く疲れていたのだと思う。もう動きたくなかった。

狭い路地を入ったところにホテルの入口がある。その入口の横にバイクを置かせてもらった。探せばバイクを中庭などに置ける宿が何件かあった。

イスタンブールやペシャーワルとかは長期滞在するには手頃な街だ。宿代が安く、食事もそこそこで、しかも比較的安全で観光もできる。
最初はシングルに止まっていたが後から3人部屋に移った
カイバルホテル40×8
カイバルホテル25×13
5/22(日) Rawarpindi
ラーワルピンディー
朝6時に出発。バイクの調子は最悪だ。いよいよ出発。9時過ぎにはラーワルピンディーに到着。すぐ隣町のイスラマバードへの行き方がわからず、また1時間ぐらいさまよってしまう。10時半ごろ日本大使館ら到着。すぐそばのインド大使館により12時過ぎにチェックイン。疲れたの寝てしまう。
ナショナルシティホテル/100RP
ホテル100
5/23 Rawarpindi

朝7時頃起きて食事。インド大使館に行くが9時からと言われ、日本大使館で新聞を読み時間を潰す。インド大使館でビザをとる。朝に申請し17時に受け取る。ホテルに戻り、バザールをうろつくが、体調が悪く、さらに暑いのでヘロヘロだ。17時前にイスラマバードのインド大使館に行きビザを受け取る。

ホテル100、
インド大使館
ビザ41ルピー
5/24 Rawarpindi 朝9時に起きて食事をして、両替に行く。昼、食事を兼ねてバザールに行く。 ホテル100
5/25 Lahore /ラホール 朝6時に起きて、食事をしてラホールを目指す。涼しいのは朝のうちだけ、9時頃から猛暑になる。不快、水物ばかり摂っている。たった200kmぐらいなのにやたら時間がかかる。暑さでエンジンがカリカリいってる。12時過ぎにラホールに到着。街をぐるぐる周り、目的のサルベーションアーミーを探す。なかなか見つからない、というよりも頭がぼーっとして前を何度も通っているのにわからなかった。やっとチェックインできた。宿は街の中心からかな離れている。ともかく食事に出かけ、戻ってバイクを洗い、洗濯もする。1人だけかと思ったら夕方アメリカ人と日本人が戻ってきた。 サルベーション
アーミー30
5/26 Lahore 朝8時頃起きて食事。その後バイクの修理をする。全部おろして、フレームの溶接をしに行く。フレームの修理は20RPだった。戻ってステアリングボールレースの交換などを行う。朝から始めて15時過ぎに終わる。
サルベーションアーミーは、赤十字のオフィスの一角が宿泊設備になっている。ビルの裏側が庭になっているので、インドに向けてバイクの整備をした

フレームの溶接、ステアリングボールレース、ボールの交換
サルベーション
アーミー30
フレームの溶接20RP
5/27 Lahore 朝9時過ぎに起きて食事。バスに乗ってGPO/郵便局に行く。歩いて帰るつもりだったが地図とはかなり感じが違い、疲れたのでリキシャに乗ってオールドシティに向かう。針と布を買う。それで袋を作り、必要なくなった荷物を日本に送り返す。暑くて水ばかり飲んでいる。これは絶対ヤバイ。生水で作った氷も飲んでる。食欲もあまりない。 サルベーション
アーミー30
5/28 Lahore 10鍵に起きて、GPOにいき、必要がないと思われるテントや冬物を日本に送り返し、なるべく身軽にする。街をバイクで見て回りたいが、熱風が吹いてて、とても走れたもんじゃない。 サルベーション
アーミー30
5/29(日) Lahore 暑くて動きたくない。食事をしてオイル交換をする。オイルが少し足りなかったので、古いオイルを混ぜて使う。
オイル交換、オイルフィルターの交換、プラグの交換
サルベーション
アーミー30
5/30 Lahore 朝8時に起きて食事。あまりすることがないし、観光にも行きたくない。 サルベーション
アーミー30
5/31 Lahore 体調が悪い
9時頃起きて食事。その後また寝てしまう今日はブレーキのパッド(R)を交換。一日中水ばかり飲んでる。夜下痢。 夜、21歳の日本人の男の子が来る。
サルベーション
アーミー30
ブレーキ交換
6/1 Lahore 体調が悪い、一日中ゴロゴロしている。夕方ころ昨日きた森田くんと食事に行く。 サルベーション
アーミー30
6/2 パキスタン→インド AM8:00に出発、すぐに国境に着いた。インドに入国、しかしここで夕方18時まで待たされた。軍の車両が先導し、入国した旅行者全員をまとめてコンボイ状態でアムリットサムを通過するということだった。 これは、1984年6月に、インド陸軍のシーク教総本山ゴールデンテンプル制圧事件によるもので、外国人はパンジャブ州に入れないためだった。話には聞いていたが、夕方から出発するとは思わなかった。国境にはマジックバスもいた。マジックバスはロンドンからネパールのカトマンズまでバスで旅行するというもので、ここに来ていたのは、2階建てのロンドンバスだった。運転手の話では、バスはダラムシャーラーに行くと行っていた。ここまでの途中、イランに入国できない国籍の乗客は飛行機でイランをバイパスしたと言っていた。バスには日本人の旅行者も乗っていたので、少し話をした。むかし、中上健次がマジックバスにのって旅をするドキュメンタリー番組をテレビでみたことがある。その時の雰囲気とは随分違っていた。
コンボイはアムリットサムを抜け、車やバイクは真夜中に解放された。しかし、これからどうすればいいのだ。しょうがなくデリーに向けて走り途中のお茶屋で食事をして、路上に置かれた編み上げのベットの上で睡眠。AM2:00からAM6:00まで寝た。
■アジア・INDIA
6/3 Delhi /デリー 103,998km

起きて、チャイを飲み、出発。もうこの時間は、朝の通勤時間で、バスは満員。道路も渋滞していた。車はスズキが多い。それでも朝10時にデリーに着いた。宿は街の中にあるツーリストキャンプ場のバンガローに入った。 そこでラホールで会った森田くんと再会し、同じバンガローをシェア。しかし暑くて寝れない。外の温度は40度を越えている。部屋には窓も無く、小さな扇風機が一つだけ。ドアを閉めると、暑くて眠れない。ツーリストキャンプには戦争から疎開して来たイラン人が多かった。
ツーリストキャンプ27RP
U$1=13.5RP
6/4から6/19 Delhi 6/4、午前中に情報センターに行くがしまっていた。オールドデリー観光。戻って来ると熱があるみたいで、風邪か肝炎か?? だるい
トイレにいったら、おしっこが真っ黄き、やっぱり肝炎だ。
6/8、肝炎がもっともひどい、ともかく怠い、何もしないでゴロゴロしていた
6/12、黄疸も引きほぼ良くなる
6/13、イラン人が買ってくれてインドのLiv52を飲んでみる
6/14、まだ怠い
6/18、街に出かけ、見つけたバイク屋でシールドを買う25RP
6/19、体調が悪い、インドを南下せずに、休養をかねてネパールに行くことにした

森田くんが一緒で話し相手がいて本当によかった。

食べ物は何もかもカレー味、路上の食堂ではサブジーだったか、オクラなんかが入った野菜カレーが安く、外国人だとスプーンを出してくれる。

肝炎でダウン
ツーリストキャンプ
27RP×16

6/20 Agra /アグラ まだ、体が怠いが出発する。観光地アグラ、観光客でいっぱい、宿も街も雰囲気が悪い。観光スレした感じた。タージマハルも見ないで、一泊したらすぐ移動する。
ツーリストレストハウス50RP
6/21〜6/26 Khajuraho
カジュラーホ
Khajuraho
8時半にアグラを出発。ジャーンシーを目指して走る。途中で食事、サブジーとチャパティとチャイを2杯で7RPだった。一食50円ぐらいの感じだろうか。これが一般の人の食事代なのだろう。 道が空いていたのでジャーンシーに以外に早くついたので、さらに先のカジュラーホまで行くことにした。カジュラーホに着いたのは17時半ころ。とりあえずサンセットビューに泊まることにした。この街には遺跡があり、一応観光地なのだが、ただの田舎の村だ。
このサンセットビューも日本人が多く泊まる宿で、デリーで会ったCさんと再開。田舎でのんびりできるので、まだ少し休み、体調を整えることにした。
サンセットビュー
25RPx6
6/27〜7/2 Varanasi
バラナシ
Varanasi
朝6時に起きて、ホテル代を払い、出発。街で食事。雨が降っていたのでカッパを着て走る。夕方バラナシ(ベナレス)に到着。ツーリストバンガローを探している時にバイクを倒し足を挟んでしまう。
ツーリストバンガローではツアーの斡旋もしていた。そこでツアーに参加して見た。当日の朝7時ころガイドが迎えに来た。ツアーはバスで街の中を周り、さらに船に乗ってガンジス川観光(30RP)をというコース。それなりに楽しかった。
ツーリストバンガロー35RPx6
7/3(日) Bodh Gaya
ブッダガヤ
朝10時に起きて、食事、もう一泊するか迷ったが、出発することにする。ガヤの入り口がわからず、通り過ぎてしまった。また戻って道を探す。
仏教の聖地。多くの日本人観光客が訪れる。バイクに乗った土産屋がうるさく付きまとってくる。彼らが売るのは、菩提樹の下で仏陀が悟りを開いたと言われている木の種で作ったとされている数珠。紫檀とか黒檀で作ったものも売っている。信じられない値段でふっかけてくる。10〜20円程度のものを、1〜2万円で売るらしい。それを買う日本人ツアー客が彼らのカモだ。こんな田舎のにいちゃんがバイクに乗っていたり、シンガポールにラジカセを買いに行くとか言っていた。この土産屋が勧めてくれたスリランカゲストハウスに泊まることにした。
今日も下痢。スリランカゲストハウスから表に出て比較的大きな道沿いの屋台のカレーで毎日、夕食を食べているのだがこのカレーの刺激がお腹に悪い感じがする。
スリランカ
ゲストハウス50RP
7/4 ブッダガヤ 下痢、ゴロゴロしてる。宿50RP スリランカゲストハウス
7/5 ブッダガヤ 下痢、ゴロゴロしてる。宿50RP スリランカゲストハウス
7/6 Rajigir /王舎城
ラジギール
昼頃出発。雨が降っていたのでカッパを着て走る。15時頃ラジギールに到着。この辺りは結婚のシーズンらしく、どこも人でいっぱいだ。下痢で体調が悪い。インドに入国してずっと下痢だ。 ツーリストバンガロー20RP
■アジア・NEPAL
7/7 Birganj /ビルガンジ 106,190km

朝8時半に起きる。体調が悪くもっと寝ていたかったが出発の用意をする。ここのマネージャーみたいなヤツがやって来て、宿代の交渉になった。はじめ50RPと言っていたが結局20RPになった。多分15RPが正規で、交渉して儲けた分が彼のポッケに入るのだろう。国境の町ラクサウルまで290kmある。急ぐが、ともかく道が悪く、暑い。ラクサウルの手前50〜60kmぐらいのところでダウン。少し横になる。国境に着いたのは18時半、インド側の出国はすぐ終わる、係官の態度が悪かったがチャイを出してくれた。ネパール側の係官は穏やかだ。入国時にビザ代U$10必要だったが、20ドル札しかなかった。係官が両替に行ってくれたが、持って来たネパールルピーが少し足りなかった。そうこうしていると他の係官が来て金庫があき、10ドル札でお釣りをくれた。今までの旅で初めての経験だ。荷物検査もなく、カルネを切って20分ぐらいで入国できた。ホテルを探しているうちに真っ暗になっていた。チェックインして、100イントルピーを両替してもらう。168ネパールルピーになった。

入国ビザ10US$
ホテル66NPR
7/8〜7/26
Kathmandu/ カトマンズ
Kathmandu

朝9時に起きる。体調が悪い。カトマンズを目指してひた走る。天気が悪く、雨が降ったり止んだりしている。街に着いた頃には場げしい雨が降っていた。ホテルを探していたら。チェンジマネーの声がかかる。U$1=25NPRだという。まあいいやと思い、そいつに着いて行ったら、お土産屋に。そこで、他の男他の店ならU$1=27NPRだと言う。連れて行くから手数料150NPRくれと言う。そいつに着いて行ったらU$1=26.30NPRだった。U$100両替して100NPRを手数料として渡す。一度両替してくれる店がわかれば、あとはいつでも同じ店で両替できる。手頃な宿を見つけ、そこの親父がなんとなく優しそうだったのでここに泊まることにする。
カトマンズはいいところで、休むには最適だ。大勢の外国人登山家が訪れるので、安い宿も多くいろんなものが揃っている。登山用品の中古がいろんな店で売られ、日本語の本や、地球の歩き方の中古も多数売られていた。日本食のレストランも多く、しかも美味しい。

少し前は、バックパッカー? の聖地で、マジックマシュルームでみんな飛んでいたらいし。今を街を歩いていると、ハッシッシ、マリファナと売り子に声をかけられる。

7/9、カトマンズに先に到着しているはずの森田くんを探しに、日本人が多く利用する宿に行ってみた。そこで森田くんが入院していることを聞く。
病院へ、お見舞いったら、痔で入院していた。そういえばパキスタンで会った時から尻が痛いと言っていた。ここの病院で手術をしたらしい。
カトマンズでは、毎日静養をかねてゴロゴロしている。
7/14、インドに戻り、旅行を続けるため、日本大使館にパスポートの増刷をしに行く。
7/15、日本大使館に。パスポートの受け取り。800ルピー

7/19、インド大使館にビザの申請、111Rp
7/20、ボダナートに観光
7/21、インド大使館にビザをとりに行く。
7/22、旅行を続ける為にバイク屋でオイル交換・225RP
7/23、旅行を続ける為にバイクの整備

Holy Loge・30NPR、
7/26〜8/5 カトマンズ
Kathmandu
7/26、タイ大使館・ビザ代金245RP。ネパールからインドに戻り、インドからタイに行く予定でピザを撮った。インドのKhajurahoで会ったCさんと再開
7/27、ペールー・リマのペンション佐藤で一緒だったTと再会
7/29、Tに誘われ、一緒にチベットに行くことに決定
バイクでは行けないので、ツアーで行くことになった。
7/30、ボダナート、バシュパニナートに観光
7/31、旅行代理店でチベットツアー申し込みUS$400、片道の飛行機代と、チベットでの宿代が込み
8/2、動物園、パタンに観光。
8/5、旅行代理店、バイクと荷物はHoly Logeに預かってもらうことにした。
Holy Loge・30NPR、
■チベット
8/6Lhasa /ラサ
ネパール→チベット、ネパールからチベットツアー、 AM6:00出発・PM8:00着
中国人ガイドにつれられホテルに。招待所と言われる、国営のホテルで、街の中心からかなり離れていた。チベットツアーには日本人3人と、ドイツ人女性とアメリカ人女性が一緒だった。
このころの中国は、一般の外国人に国内旅行を解放してからあまり時間が立っていなかった。通貨は2種類あり中国人用の人民元/RBM、外国人用のFEC
スノーフレイクホテル
チベット入国
ツアー、375ドル
8/7(日) 〜8/18 ラサ
ラサ

8/7、ヤクホテル・22元(1FEC=16.7RBM)
8/8、ツアーなので、中国人のガイドとともに、ポタラツアーにいく。
8/9ツアーは二泊三日で終了。ドイツ人の女性が、ホテルを変わるというので一緒について行った。ヤクホテルは多くのパックパッカーが利用していた、チベット人が経営の人気の宿のようだった。ヤクホテルに移動・22元
8/15ついに本物らしい「ジー(天珠)」を手に入れた

スノーフレイクホテル
8/19 Shigatse /シガツェ 8/19ラサ→シガツェへバス旅行(36.2FEC ??)、 1FEC=16.7RMB 第二招待所・7.5元
8/20 Shigatse /シガツェ
Shigatse
シガツェ観光 第二招待所・7.5元
8/21(日) Shigatse /シガツェ
Shigatse
シガツェ観光 第二招待所・7.5元
8/22 Shigatse /シガツェ シガツェ観光 第二招待所・7.5元
8/23 Lhasa /ラサ
シガツェ→ラサ、バス代金(18RMB) ヤクホテル・22元
8/24 Lhasa /ラサ バスでラサに戻る ヤクホテル・22元

8/25 Lhasa /ラサ
Lhasa

ポタラ観光 ヤクホテル・22元、
8/26 Lhasa 拉薩/ラサ ネパール領事館、ビザの申請・40FEC ヤクホテル・22元
8/27 Gyangtse 江孜県
ギャンツェ
チベットの旅を終え、バスでネパールに戻ることにした。
一泊目は中国国営の招待所に泊まる。バスで一緒だったのは香港人。
招待所・3元
8/28(日) Shigatse 日喀則
シガツェ
二泊目はチベット人経営のホテル泊まる。 バスターミナル
ホテル・6元
8/29 Lbatze /ラッツエ
Lbatze
三泊目は中国国営の招待所に泊まる。 招待所・8元
8/30
Tingri/定日 /ティンリ
Zhangmu

バスでヒマラヤを横切って、ネパール国境に向かう。
バスが休憩した地点から見えるヒマラヤの山並みは、この世のものとは思えない。 これを見るためにここまで来たのかもしれない。偶然の出会い。

四泊目は中国国営の招待所に泊まる。

招待所・12元
8/31

Zhangmu 樟木鎮 /ダム
→ネパール TatopaniZhangmu

国境は山の中で、ネパールに向けて山道を下って行く。本来は、国境を越えてすぐのところまで、バスが来ているはずだったが、地震で道路が所々寸断されていため、歩きとなった。
国境から7時間歩き暗くなってきたため、シャクワの民家に泊まる・25RP。民家は民宿もかねているようで、食事も提供してくれた、寝る場所は納屋の様なところで、後から、何人もの人がやって来た。

樟木鎮
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=樟木鎮&ie=UTF-8&ei=2p-DUP2IBuj1mAWixYDwCg&sqi=2&ved=0CAgQ_AUoAg

民家に泊まる・25RP
アジア・NEPAL
9/1
Kathmandu カトマンズ
Kathmandu
所々寸断され道路を朝から6時間歩き、車が折り返していた所でタクシーをひろい、カトマンズまで移動・250RP。もうくたくた。そして泊まっていたホーリーロッジに戻った。 ホーリーロッジ・44RP
9/2
Kathmandu /カトマンズ
Kathmandu

ここでバイクでの旅を終え、帰国することに決めた。理由はいろいろだが、結局、旅行するこに疲れたのだと思う。同じ町に何泊もして、食事も日本レストランばかりに行ってしまう。だらだらして動きたくない。別にそれでいいのだが、走るのが目的だ。そう世界中の町から町を走り回る旅。バイクで行く世界一周の旅が目的だ。しかし、すでに走る意味を失ったのかもしれない。走る意味ってなんだったのだろう。それすらも分からなくなっている。
予定では南下して、インドのチェンナイから、オーストラリアのパースにバイクを船で送り、オーストラリアを一周して旅を終える予定だった。しかし日本を出てから既に2年半が過ぎていた。コロンビアでバイクを受け取るために失った27日とその金。ペルーで事故で失った6ヶ月とその金。ポルトガルでバイクを受け取るために失った2ヶ月とその金。2年半の内、走れなかった期間は9ヶ月もあったわけだ。大陸から大陸への3度のバイクの運送、通関、受け取りがあまりに過酷だったため、インドからオーストラリアの移動はもう心が拒否しているのかもしれない。精神的にも肉体的にも既に終焉を迎えていたのだろう。

混沌としたアジア・アフリカを旅するバックパッカーの旅の目的はなんなのだろう。現実から逃避、未知の世界の探求。

ホーリーロッジ・44RP
(闇でU$1=約29RP)
9/3〜9/18
Kathmandu /カトマンズ Kathmandu

9/4、ネパールは山岳国家なので、日本へのバイクの運送は航空便となる。
送るため代理店に行き、見積もりをとる。多くの登山家がカトマンズを拠点として、荷物の運送を依頼しているのだろう。代理店もなれたものだ。
9/7、ボダナート観光、ロイヤルネパールオフィス
9/8、代理店のそばで声をかけて来た男が、個人で航空便の手配してくれるという。安かったので頼んでみることにした。その運送屋と打ち合わせ
9/10、ボダナート、さらに複数の「ジー(天珠)1・23」を手に入れた
9/12、個人の運送屋が手配してくれた大工がバイクの箱作り(梱包)にきた。宿の庭で箱作り、一緒にパッキング
9/13、風邪で一日寝ていた。
9/14、バイクを日本に送る
運送屋が手配してくれた、トラクターの荷台に、ホーリーロッジにいた日本人旅行者全員で乗せ、飛行所の税関に持ち込む。税関では、重さを量るのだが、計りのある部屋に、箱を入れられなかったので、重量は適当な重さとなった。全てがアバウトだ。
バイクでの旅はここで終った。 走った距離は106,464km
エージェントに1000RP、運んでくれたトラクターに400RP、箱代1500RP、荷物運び賃200RP、税関までのタクシー150RP

カカタムでリクエストレター
飛行場のカスタムへ移動し、荷物検査、重量検査
代理店でエアピルを受け取り、終了

9/15、旅を続けていると、人は朽ちて行く。私は既にホームレスと同じ状態だった。
9/17、ボダナートへ観光

ホーリーロッジ
一泊44RP
バイクの空輸/US$750。
9/19
Kathmandu /カトマンズ
Kathmandu
飛行機のチケットUS$270 ホーリーロッジ・44RP、
9/20 バンコク・タイ カトマンズから飛行機でバンコクへ 
PM3:00出発、タイ時間PM8:50着、カトマンズからバンコク、航空券182ドル
エアポートホテル
9/21 バンコク バンコク市内観光。バンコクから東京、航空券270ドル エアポートホテル
9/22→東京

1986年3月3日から1988年9月22日までの、2年半の旅が終了。
日本は何もかもが奇麗だった。

今考えると、日本からインドに入り、ヨーロッパをめざして走り、ヨーロッパのイギリスあたりからアメリカにバイクを送り、アメリカから南下してブラジルで旅を終え、バイクと荷物を船便で日本に送る。後は日本でのんびりと、荷物が届くのを待つとストレスがもっとも少なくてすむルートかもしれない。

9/27、東京通関に行き、カルネを預け通関手続きを代行してもらう。

日本では必ずカルネの半券にスタンプをもらいう。これが荷物を日本に持ち帰った証拠となる。税関では、箱を開けないで、そのまま、ヤマト運輸に荷物の配送を依頼した。自分でトラックを持って行って荷物を運ぶのも可能。
税関のスタンプをもらったカルネは、JAFFに返却しにいく。

帰国

INDEX